素直になれなくて

 先日(id:yinamoto:20050511)、取り上げたニック・ホーンビィの「ソングブック」(森田義信訳、新潮文庫ISBN:4102202153)にこんな一節がある。


ぼくは基本的に、複雑で知的なものほど音楽としては上等だとする意見には絶対反対の立場をとる。音楽はそんなもんじゃない。ポップ・ミュージックを軽蔑している人がいるのは、たぶん音楽が、そんなもんじゃない数少ないもののひとつだからだろう(彼らはおなじようにスポーツも憎悪することが多い)。


 ニック・ホーンビィはイギリスの作家だが、日本でも事情は似ていると思う(スポーツも憎悪云々は、イギリスと日本ではちょっと違う気もするが。日本にプレミアリーグはないし、日本でスポーツはしばしば「人間ドラマ」を仕立てるための大切な素材だから)。


「複雑で知的なものほど音楽としては上等だ」と信じ込んでいる(信じ込まされている)人は結構、いそうだ。
 私がそうだった。


 何しろ、小学生の頃はクラシックが“正しい音楽”と信じていた。
 中学生になってジャズに興味を持つようになったが、これもどこか高級ぶりたい心理の表れだったかもしれない。どこまで楽しんでいたのか怪しいものだと思う。
 中学までロックは“悪い音楽”だと信じ込んでいたのだ。恥を忍んで、ここに告白いたします。


 私の生まれ育った家はいかなる意味でも上流ではない。
 父親はクラシックのレコードを結構、持っていたが、今、思えば「カルメン」とか、映画音楽的な楽しみ方をしていたような気がする。
 しかし、何となく、家の中に「クラシックは上等な音楽」とする感覚はあった。地方都市のありふれた家になぜか蔓延していた、権威主義スノビズム


 いや、家族に全ての責任を押しつけるのはフェアではない。
 小学生の私は、権威主義的なヤなガキで、中学生になったらそこにイヤラしい自我の肥大(おれは他のやつらと違う、というやつ)が混じって、ヤなヤなガキになった、ということだろう。


 一方で、若き血潮、というやつには恐るべきものがあって、高校に入ると、ハードロックが好きになった。極端を求める年頃でもあるから、そこからヘビメタに走った。
 今からすると、脱穀機の横で奇声をあげるお百姓さんを聞いていても、あまり代わりはなかったと思うのだが……。


「複雑で知的なものほど音楽としては上等だ」という考え方は、たぶん、大学を出る頃まで引きずっていたと思う。
 ウェザー・リポートが好きだったし、脱穀機と暮らしていた高校時代も、一方でプログレにハマってもいた。
 今はどちらもちょっと聞く気がしない。


 なぜ「複雑で知的なものほど音楽としては上等だ」と(そこまではっきり言葉では意識してなかったろうけど)信じていたのかは、よくわからない。
 単純に体験する音楽の幅が狭かった、というのもあると思うし、自ら、心のどこかを閉じていたせいもあるかもしれない。


 今は「複雑で知的なものほど音楽としては上等だとする意見には絶対反対の立場をとる」というホーンビィの意見に賛成だ。


「複雑で知的な」音楽にも素晴らしいものはあるだろう。
 バッハ直系の子孫の、この私だ。そこまで否定する気はない(本当である。一族の間での私の正式名は“ヨシノリ・セバスチャン・イナモト=バッハ”だ。また、家は浄土真宗だが、葬式と七回忌では、お寺でパイプオルガンを演奏することになっている。もちろん、坊さんにも、あの長いカールした白髪のカツラをかぶせる)。


 しかし、それは「複雑で知的なものほど音楽としては上等」というのとは違う。
 また、音楽は「芸術」だから素晴らしいわけでもない。素晴らしいと感じるものは素晴らしい、でいいと思う。


 しかし、一方で、人がなぜ演奏そのものではなく、ジャンルに「上等・下等」、「高級・低級」、「正しい・間違っている」とレッテルを貼るのかにも、興味がわく。


 心のこわばりのようなものが関係しているのだろうか。まあ、心がヤコヤコならいいというわけでもなさそうだけれども。


 ただし――あえてジャンルにレッテルを貼るが――脱穀機はねえ。