校歌

 日本のほとんどあらゆる学校に校歌があるが、あれはなぜだろう。


 そんなこと、考えたこともない人のほうが多いだろうが、世紀の大発見というのはしばしばそんな意外な疑問から生まれるのだ。
 今、とっさに意外な疑問から生まれた世紀の大発見の例を思いつかないが。
 校歌について考える中から世紀の大発見が生まれる可能性も、極めて低いだろうが。


 実はさっきから小学校から大学まで、自分が経てきた学校の校歌を思い出そうとしているのだが、ひとつも思い出せない。


 年をとると同時に、だんだん人の名前を思い出せなくなるのと同じかもしれない(先ほどから自分の名前を思い出せなくて困っている。なんとなく、農業に関係していたような)。


 たぶん、メロディを聴いたり、歌詞の最初を見たりすれば思い出すとは思うのだが、別に興味はないので、どうでもいいや。


 ひとつ、考えられるのは、組織というのは帰属意識を求める、という理由だ。
 歌は、ある意味、人をパーにする。酔っぱらうのに似て、ある部分を麻痺させ、別の部分をスルドくする。
 で、歌ってパーになっているうちに、おれはこの学校の人間なんだ、母校なんだ、陸のオージャだ都のセーホク、と刷り込んでしまおうという作戦なのではないか。手口はバレてんだ、ザマーミロ。


 校歌、社歌というのはあるのに、家歌というのがないのは、家族がもともと帰属意識の強い小集団だからかもしれない。


 なんだか、最近、家族がバラバラになりつつあるような気がしているオトーサン。求心力を高めるために、家族の歌を作ってみてはいかがでしょうか。
 一生懸命に作って、家族に無理矢理歌わせた途端、息子や娘の心はさらに離れていくでしょうが。


 まあ、学校側はそこまで意識はしていないだろう。


 新しく学校を作るときに、たぶん、教頭か誰かが言うのだ。
「校歌はどういたしましょうか」
 で、校長が扇子をパタパタしながら、
「そうだねェ、この市の出身者で有名な作詞家や作曲家の先生かなんかはいないかね」
「ハ。では、早速、調べまして――ところで、秋に佐藤先生と青木先生が結婚するとか。お聞きになりましたか」
「ナニ?!」
 と、校長は一瞬、扇ぐ手を止める。そうして、またパタパタやり出して、
「まァ、佐藤君もあれでなかなか発展家だからねえ。ワッハッハ」
 とかなんとか、そんな成り行きで校歌というのはできてしまうのだろう。


 学校には校歌があるのが当然の助動詞、と捉えられているのだと思う。


 ありきたりの校歌ではつまらない、というので、創立何十周年だかに、学校出身のシンガーソングライターかなんかに頼んで、「今風」の校歌を作る学校もある。


 扇子校長氏は古い校歌にも一応の配慮を示さなければならないものだから、パタパタ扇ぎつつ、
「前の校歌も大変いい歌でしたが、我が校も新しい時代とともに常に生まれ変わらなければなりません」
 なぞと、創立記念式典についての会議か何かで、テキトーに挨拶するのだ。


 まあ、勝手にすればいいが、小賢しい気もする。


 校歌なんざ、風景で始めて、学ぶ心だの、友愛の心だの、輝きだの、情熱だのをテキトーに織り込んで、「♪ああ〜、○○コ〜コ〜」で終わっとけばいいのだ。


 私は何かへの帰属意識が薄いせいか、あるいは「あー、面倒くせえ」と尻をボリボリ掻きながら生まれてきて以来「やり過ごす」を基本姿勢として生きているせいか、どうも、そんな斜に構えた考え方をしてしまう。


「斜に構えた考え方をしてしまう」と書いたが、別に改める気もない。
 ビコーズ・イッツ・マイ・ウェイ・オブ・ライフ。そいつがおれの生き方だ。


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