歌詞は詩じゃなくてよい

 まず、この人のいいところは、自分がいいと思ったものに対して忠実なところだ。他の誰かさん(音楽評論家だの、音楽マニアだの、“〜すべき”論者だの)の意見に左右されない。誠実な人だと思う。


 いや、以前は左右されたことがあるだろうし、今だって、多少は左右されるのかもしれない。しかし、それを乗り越えて、自信を持ち、きちんと自分の感覚で判断し、そして少々自分を疑う視線も持っている(健全な態度だと思う)。
 そして、人を楽しませようとすることを忘れない。


 たとえば、ボブ・ディランの「窓からはい出せ」について書いた文章から。


だがぼくがディランの人生を知りすぎているのは、ぼくのせいなんかじゃない。ほかのみんなのせいだ。友人、音楽ライター、大学教授、本を出してくれる編集者。ボブ・ディランを避けているのはむずかしい。大きな理由は、彼がメジャーな詩人としてのステイタスを得ているからだろう。インテリたちにとっては、ポップ・スターを愛する際に感じるような不安を感じることなく、好きになれる存在であるわけだ。
 そしてきっとぼくは、そこがイヤなんだと思う。あなたがこの本の世界にすんなり入ってくれているのか、それとも入ろうとも思わないのか、それはわからないけれど、もし入ってくれるのであれば、きちんと入ってきてほしい。そして、詩として認められているものとおなじように、おバカなもの――<キラメキ☆mmm bop>だとか<ジュディ・イズ・ア・パンク>だとかにも広い心で接してほしい。もちろん<キラメキ☆mmm bop>のことを真剣に考えてほしいなんて言うつもりはない。だって、そもそも考えること自体に問題があるのだから。


 あるいは、ベン・フォールズ・ファイヴの「スモーク」の章。


ソングライティングが詩とはまったくちがったアートであることをぼくらは忘れがちだ。ボブ・ディランである必要はない。セリーヌ・ディオンに曲を提供するようなどこかの誰かさんである必要もない(言い換えれば、「夢」だとか「ヒーロー」だとか「生きぬく」だとか「心のなかで」なんていう言葉やフレーズを使わなくたってかまわないってことだ。だって、人生はフォードのニューモデル用の広告じゃないんだから)。


 パチパチパチパチ。
 同じ章から。


親が部屋に入ってきて、小馬鹿にしたような調子でステレオやテレビで流れていた文句を口にし、そのせいでぞっとさせられた経験は誰にだってあるはずだ。「いったいどういう意味なのよ」とぼくの母は『トップ・オブ・ザ・ポップス』を見ていたときたずねた。「『やろうぜゲット・イット・オン/銅鑼を鳴らそうぜバング・ア・ゴング』なんて。こんなの、ちょっと考えただけで思いつく文句でしょ?」――しかしぼくらはいつだって「二秒で思いつくけど、それでいいんだよ」という正解には達しないまま、親にむかって「うるさい」と言うことしかできない。そして心のなかで、やることと銅鑼を鳴らすことしか歌っていないのに人をとりこにしてしまうマーク・ボランをうらむことしかできない。


 ホント、歌って、そんなものだと思う。昨日、訳した「アイルランドの子守歌」だって、歌詞だけ読めば、大したことは言っていない。しかし、歌として聞くと、非常に説得力がある。


 思った通り、大量の引用になった。でも、まだまだ行くのだ。


 ちょっと一息入れましょう。お茶を入れるなり、ブロンを飲み干すなり、銅鑼を鳴らすなり、勝手にドーゾ。