「私だったら」という考え方が日本特有なものなのか、それとも他の地域にもあるのかは知らない(案外、ある気もするが)。
が、個人主義の染みこんだ社会では、あまりこういう考え方はしないような気はする。
先日の憲法記念日の新聞に、こんな意見広告が出ていて、虫酸が走った。
「憲法9条を変えることにみんなで反対しましょう」
虫酸が走ったのは、「憲法9条を変えることに反対する」ということについてではない。反対したい人はすればいい。
そうではなくて、「みんなで」という、曖昧な集団幻想が気持ち悪かった。なぜ、そう簡単に「みんなで」などという言葉を出すのか。
広告を見る限り、この意見広告を出した人達は、その点には、疑問を感じていないようだった。無邪気にすら見えた。
オレハヤダネ! ゴメンコームルヨ!!
「みんなで」感覚(ゲー)が、ある程度、世の中に共通しているとしたら、時代が変われば、オセロの石がひっくり返るように、逆方向へと走り出すんじゃないか。そんな気味悪さを感じる。
実際に、戦前と戦後ではオセロの石がひっくり返ったようだし。
曖昧なうちに「みんな、いっしょ」(ゲー、ゲー)となっている点で、「私だったら」と「みんなで反対しましょう」には共通する根っこがあるような気もする。
「私だったら」という発想は、個性を主張しているように見えて、実は「『みんな、いっしょ』(ゲー、ゲー、ゲー)だけど、諸般の事情により、個人差が生まれました。でも、立場の入れ替えは可能です」ということだからだ。
おれだったら、こんな意見広告は出さないね。