天の言葉

 私の好きな言葉に、「天に唾する行為」というのがある。


 実は、長い間、正しい意味を知らなくて、何となく、崇高なものに無礼を働くこと、と思っていた。
 パンクの人々が「Fuck you!」と中指を立てるようなものかと思っていたのだ。


 本当の意味は、人に害を与えようとして、自分がひどい目にあうことをいう。
 つまり、空に向かって、ペッと唾を吐いたら、ペチャッと自分の顔に落ちてきて、「うわっち。ぐぎゃぎゃぎゃぎゃ」と慌てるのだ。


 相当、短慮な人といわねばなるまい。そのあまりの短慮ぶりに、むしろ、私は感心すらするのである。だいたい、何を思って、わざわざ上を向き、唾を吐いたのか?


 ところで、唾が口の中にあるときは特に汚いと意識しないのに、なぜ顔にひっかかると汚いと感じるのだろうか。
 あるいは、熱烈なチューをしたら唾のやりとりをすることになるのだが、なぜそれは汚く感じないのだろう。だったら(ってこともないけど)、お互いの顔に唾をひっかけあいしてもよさそうなものだ。
 しかし、そんなことをしたら、恋人同士でいられるのもそこまで、という気もする。


 関係ないですね、そんな話は。


 天に関する言葉で、もうひとつ好きなのが「杞憂」だ。


 昔、中国の杞の国の人が天が落ち地が崩れるのではないか、と心配したことから、無駄な心配をすることをいう。


 杞の国の人も、相当、スケールの大きい心配をしたものだと思う。空を見上げているうちに、「落ちてくるかなあ」と不安になってきたのだろうか。歩いているうちに、「崩れるんじゃないか」と思えてきたのだろうか。
 何かの理由で、神経がマイっていたのかもしれない。


 しかし、一方で、私はこの人に、常識を突き破る想像力の大きさ、というものも感じるのである。


 この「杞憂」という言葉は、「列子」という本にあるそうだ。
 列子老子の流れを汲む人。「天が落ち地が崩れる心配」については、単純に、愚か、と斬って捨てなかったようだ。


「天地が崩れるだの崩れないだの心配するのは余りにも先の心配をしすぎるといわねばならないが、同時に崩れないと断言することも正しいことではない。
天地が崩れようと、なにしようとそんなことに心をみだされない無心の境地が大切なのだ」


 引用元はこちら。


ようこそ! 蓮見さんちです〜故事成語を語る


 後半の「無心の境地が大切なのだ」というところは、いかにも道家の説教くさい。それに、天地がドカシャバ崩れているというのに、「そんなことに心をみだされない」って……ねえ。


 しかし、その前にある、「崩れないと断言することも正しいことではない」という態度はいいな、と思います。