別の言い方

 一昨日の日記に引用した、中島らもいしいしんじの対談「その辺の問題」(角川文庫、ISBN:4041863066)の解説。小堀純という人が書いた文章。


「実在性を消してまわって物事を何の意味もない純粋な冗談にすりかえていく」と中島らもの本質を評したのは村上春樹(『啓蒙かまぼこ新聞』解説・1986年/ビレッジプレス)だったが、「虚実皮膜」とはよく云ったもので、中島らもの限りなく「真実」に近い「冗談」がいしいしんじという、絶妙のツッコミを得て毒のある虚構性を獲得している。


 やわらかめに書き直してみると、こんなところだろうか。


 中島らもについて村上春樹は、「本当にあったことかどうかなんて、どうでもいい。世の中のあれやこれやを、ただただアホらしい冗談のネタにする」、というようなことを言っている。まったく、中島らもの言うことは本当のようでもあり、嘘っぱちのようでもあり。
 この対談では、中島らもが「ホンマかいな」というような冗談を言い、それに、いしいしんじが絶妙なツッコミを入れる。おかげで、「うまいこと、ツクッたろ」とすら思わせる、スパイシーでオモロい話になった。


 やや無理矢理に書き換えたところもあるけれど、言わんとすることはさほど違っていないはずだ。
 こう書き直してみると、あんまり大したことは言っていないことがわかる。


 私はこの小堀純という人をタタきたいわけではない。そもそも、全然知らない人だ。
 インターネットでさっと検索した範囲では、演劇関係の編集や評論を主にしていて、中島らもとの共著もあるようだ。


 どんな言葉を使って書くか、というのは、好みと慣れによるところが大きい。好き嫌いは言えても、どれがいい悪い、という話は簡単にはできない。書き手のスタイルや節回し、というのもあるし。
 たぶん、小堀純という人の頭の中には、「虚実皮膜」とか、「虚構性」といった言葉がフツーにゴロゴロしているのだろう。


 私の好みをいうと、「虚実皮膜」、「虚構性」といった類の言葉は、脳味噌が止まりかけるので、あまり好きではない。エラソーで、文章にもよるけれど、コケオドシに感じるときもある。


 もちろん、「虚実皮膜」、「虚構性」といった言葉でしか、表現できないことやニュアンスもある。
 しかし、しばしば「あー、なんか、ムツカしそうな話なんで、ワタシ、パスです」と歩み去ってしまう人も出てくるだろう。少々、もったいない気もする。


 なんというか、日本語を使う人々の間でも、言葉の壁が結構あると思うのだ。もしかしたら、方言の違い以上に、その言葉の壁は高いかもしれない。そして、案外、そのもったいなさを軽く見ている人は多い。


 お互い、わかってみれば、面白いことを言っていたり、ツマラないことを言っていたりするのだが。
 そうなる前に、もう、言葉遣いのところで、右と左に泣き別れだ。別に泣かんけど。


 まあ、私の書いた文章を読んで、言葉遣いが嫌いだとか、理解できない、ようわからん、あるいは、なんだ、このグニャグニャのヘチャヘチャな文章は!、という人もいるのだろう。
 ある程度は、しょうがないんだろうな。


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