天国

 天国とか、極楽と呼ばれる世界が本当に存在するのかどうかは知らない。
 しかし、少なくともそれらは、長い歴史の中で、人々がある種の理想と感じてきた世界ではあったろう。


 ところが、どうも、私は天国や極楽(面倒だから、以後、天国にまとめる)を、あまり魅力的に感じないのだ。
 今まで見聞きしたイメージの中に、「おお、それはぜひ生まれ変わりたいものだ」と積極的に思えるものがない。


 蓮の花が咲き、仏様がいらっしゃる。
 まあ、結構だが、30分もすれば、退屈してきそうである。蓮根ばっかり食べたくもないし。


 美しい花々が咲き乱れ、蝶が舞う。小川には乳が流れる(オッパイがドンブラコ、ドンブラコと流れてくるという意味ではないよ)。木からは果物がもぎ放題。
 つまりは、働かんでも食っていける、ということなのかもしれないが、やはり、退屈しそうである。サバの塩焼きや、カツオのタタキだって、食いたいし。味噌汁とオシンコはあるのか。


 天女が舞い、山海の珍味が揃っている。
 でも、天女って、絵で見る限り、あんまりコーフン的な女性じゃないんだよなあ。珍味にもさほど興味はないし。少なくとも、サバの塩焼きは用意しておいてもらいたい。
 だいたい、女性がこの種の天国に生まれ変わったら、どうなるのか。そこでは、マッチョな天男(てんだん? てんなん?)がタンクトップかなんかで、ムキムキしているのか。


 昔の人々は、上記のような世界が理想だったらしい。
 まあ、飢えていたり、労働が厳しかったりと、現世の苦しみが大きければ、平穏や安楽に憧れるのはわかる。天女や山海の珍味、というのは、満たされない欲望を満たせたら、という願望の表れだろう。


 しかし、これらの世界像は、少なくとも現代の日本の大半の人々が「そいつはいい!」と感じるものではなくなっていると思う。


 女子高生が天国に生まれ変わったら、「えー。天国には携帯、ないのー」とショックを受けそうである。
 走り屋のニイちゃんが生まれ変わったら、「スープラ〜、インテグラ〜、ポテンザ〜」と、毎日、泣いて暮らすだろう。
 ガキや大っきいお友達は、「アニメ〜、ゲーム〜、戦隊もの〜」と駄々をこねるはずだ。
 オトウサン達は、「袋トジ〜」と足をバタつかせるかもしれない。
 形はいろいろだが、何らかの“刺激”というものが、現代の日本では喜ばれているように思う。


 と、思わず、スルドい社会批評に走りかけたが、これ以上、深入りできる能力とやる気がないので、やめておく。


 天国についてもうひとつわからないのは、生まれ変わった人が、いったいいくつになるのか、ということだ。


 亡くなったときの年齢で生まれ変わるとしたら、キビしい。
 何しろ、超高齢化社会である。天国に行ってみたら、80歳、90歳のお年寄りばかりだった、ということになりかねない。
 お花畑の中、テレビで大相撲を観戦するお年寄り達。まあ、悪くはない。
 しかし、おそらく、多くのお年寄りにとって一番の喜びは、乳の川でも、天女でも、山海の珍味ではない。孫やひ孫を抱きかかえ、一緒に遊ぶことである。


 人間の精力が一番、盛んな頃、つまり、20代あたりで生まれ変わる、としても、それはそれでどうよ、と思う。
 少なくとも、天国で自分と同い年の父親と会ったら、お互い、何となく困るんじゃないか。いや、父親だけではないか。何十人という、同い年のご先祖様達。勘弁してほしい。


 霊魂になるから年齢は関係ないと言われても、10歳の霊魂と、20歳の霊魂と、30歳の霊魂では、ものの感じ方や考え方が違うように思う。どの感受性を持つ霊魂なのか?
 まあ、これは私が精神的に稚拙なので、霊魂という状態をうまくイメージできないだけかもしれない。


 などとタラタラ書いてきたが、実はそんなに天国について深い関心があるわけではない。
 今のところ、私にとって死は差し迫った問題じゃないからか、真面目に考えられないのだ。逝けばわかるさ、とテキトーに構えている。


 最後に、広辞苑で「極楽」を引いてみる。


ごく-らく【極楽】[仏]1. 阿弥陀仏の居所である浄土。西方十万億土を経た所にあり、全く苦患くげんのない安楽な世界で、阿弥陀仏が常に説法している。念仏行者は死後ここに生れるという。(後略)


 阿弥陀仏の説法を毎日、聞かされるのか。それを喜びとする人じゃないと、ツラいだろうなあ。


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