読解力

 OECDによる国際的な学力調査で、日本の15歳の読解力が4年前の8位から今年は14位まで下がった。


 ……という話で、ガチョーンと来た人々がいろいろいるようだ。特に教育関係者はガチョーンのうえにヤバシビッチの念を抱いたようで、文科省は「読解力向上プログラム」を来年の夏までに策定するという。


 しかし、これ、学校教育の問題なのだろうか。


 いや、まったく無関係ということはなかろうけれども、国語の時間を多少増やしたからといって、読解力がそうそう向上するとも思えない。
 一方で、OECDの学力調査に対応するようなプログラムをつくるというのも、下手すると、単なる試験対策になってしまう。まあ、広い意味での学ぶことの意義よりも、試験に受かる、受かったということを重視する、いかにも日本的な取り組み方ではあるけれども。


 なんだか、新聞の社説みたいになってきたな。ガチョーン


 いきなりスケールを壮大に小さくして私の話に持ってくるのだが、自慢じゃないが、学校では国語の成績は割によかった。思いっきり自慢か。
 なぜよかったかというと、国語の授業が好きだったからではなく(教科書にはいくつかの例外を除いて、面白い文など載っていなかった)、単に本をよく読んでいたからだと思う。


 小学校三、四年生くらいまでは子供向けのSFとか、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズ、シャーロック・ホームズアルセーヌ・ルパンなどを読んでいた。まあ、そう特殊な子供ではなかったろうと思う。


 小学校の高学年になって、ちょうど角川映画がブームになったこともあり、横溝正史や、乱歩の大人向けのものを読むようになった。
 第二次性徴に入る頃で、推理小説のスリルも魅力だったが、エロティックなシーンに、多少のヤバさ、親には秘密感を覚えつつも、コーフンした。
 同時に、星新一のショート・ショート(これは子供にも読みやすい)から、筒井康隆小松左京へと流れた。


 大人向けに書かれた小説は、文章も複雑であり、含意や行間に込めた意味もある。そのおかげで多少なりとも読解力が身についたんじゃないか、と思っている。


 中学時代はプラトンからパスカル、カントを一通り読んで、ヘーゲルはあまり納得できなかったが、フッサールサルトルカミュフーコーは肌に合った。ニーチェは無責任な野郎だと感じた。
 一方で、法華教、阿弥陀経大日経もざっとは読んだが、一番、感心したのは道元正法眼蔵であった。


 高校に入ると、ウパニシャッド哲学にハマり、一方で、ラーマーヤナマハーバーラタの日本語訳に努めた。


 もちろん、中学時代以降は、デタラメである。自分でも何を書いているんだか、わからなくなってきた。ヤバシビッチ。


 えーと、学校教育は学校教育でしっかりやってもらいたいけれども、そこにばかり責任を押しつけるのは違うだろうということ。それから、子供が本を読むのは結構なことです、と、ごく当たり前の結論になってしまった。


 私が小学生の頃の筒井康隆なんて、爆発的に面白かったと思うんだが。かといって、子供に無理矢理押しつけるのもなんだし、そこらはちょっと難しい。
 小学校高学年から中学生くらいまでは、エロ、笑い、恐怖、スリルで釣る。そういう戦法がいいんじゃないでしょうか。


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