私は、ちょっとしたことで物事の見え方が「あれま」と変わる瞬間が好きで、たとえば、こんな例がある。
「真昼の決闘」
ゲーリー・クーパー主演の名作とされる映画である。
名作と「される」と書いたが、内容をあまりよく覚えていないからだ。たぶん、見たことはあると思うが、私がまだ凄まじい美少年だった頃のことかもしれない。
今、インターネットですかさずストーリーを調べてみると、保安官の任期を終えた初老の男が、ひとり孤独に4人の男に立ち向かっていく物語だそうだ。
なんか、いかにも、カッコよさそうな話ですね。そういえば、決闘シーンを見た記憶が、靄の彼方にかすかに見え隠れするような気がする、朽ち果てた男の冬の朝なのであった。
「真昼の決闘」。これから静かな生活を送ろうとする初老の男が、意を決して、ならず者にひとりで立ち向かう。非の打ち所がない、悲壮にして荘厳なシーンだ。
ところが、こうすると、様相は一変するのだ。
「お昼の決闘」
いきなりダメになってしまった。専業主婦がセンベイをかじっている姿を、なぜか想像させる。
だいたい、この「お」というやつは、日常的シヤワセの側にいる。
お野菜、お肉、お魚、お掃除、お洗濯、お昼寝、お風呂、お茶、おセンベイ、お味噌汁。
「命の洗濯」というと、まあ、しばしば既婚の男性によるよからぬ行為を指す。
しかし、これが「命のお洗濯」となると、なんだか日常的平和の側に、ぐぐっと引き寄せられるのである。何をお洗濯するのかは、さっぱりわからないが。
「肉を切らせて骨を切る」
と言うと、こう、非常に緊迫感ある状況であり、生きるか死ぬかの切所だ。
ところが、「お」の字の専業主婦おセンベイ的日常生活感の破壊力というのは大したもので、
「お肉を切らせて骨を切る」
となると、なんだか、若い人にお料理を教えているみたいになってしまうのだ。「あ、お肉はブツ切りにしといて。骨はちょっと大変だから、私がやるから」とかなんとか。
今書いた、「お料理」というのも、破壊力のある言葉だ。
アクション映画かなんかで、悪役が主人公を捕まえ、縛って動けない状態にする。ナイフで黒革の手袋をはめた手のひらをピタピタ叩きながら、「さて、と。ゆっくり料理するかな」。口元に薄ら笑いを浮かべて、言う。
切迫したシーンだ。
これも、「お」の字で様相が変わる。
「さて、と。ゆっくりお料理するかな」
エプロンつけて、腕をまくって、単身赴任のオトーサンの、静かでちょっとシヤワセな土曜日と化してしまうのであった。