三十人三十一脚

 昨晩、テレビをつけたら、小学生の三十人三十一脚をやっていた。


 テレビ番組としては、うまく視聴率のとれる企画だと思う。「子供達が」、「純粋な気持ちで」、「心をひとつにして」、「いろんなドラマを経て」、「勝負する」、「そうして最後に泣き笑いする」、というふうに、いろいろと受ける要素が揃っている。


 などと、「そこらへんの事情はわかっておるのだ」とイヤラしく示しつつ、私自身はああいうのもを見ると、嫌なふうに感じるのだ。結局、いつものように、私は私のことを語りたくてしょうがないのである。


 サッカーでも、ラグビーでも、野球でもそうだけれども、チームスポーツでは、大試合などでたまに選手達の心が同じ方向にまとまり、能力がうまく組み合わさることがある。そういうときは、見ていて、感動する。


 しかし、そういうものと三十人三十一脚には大きな違いがあると思う。


 まず、サッカーやラグビーなどでは、選手それぞれが個性を持っていて、長所をうまく活かしたり、短所をカバーしたりする。そういう、いろいろな要素、個性がからみあうところが面白い。


 そうして、選手達の個性と気持ちが本当にまとまることはめったにない。だからこそ、そういう瞬間が奇跡的に訪れたとき、感動する。
 たとえば、プロ野球で1シーズン140試合、選手全員の気持ちがひとつになり続ける、なんてこと、あるわけがない。たまにだから、「おおっ」と見ているほうもグッと来るのだ。


 「チーム一丸となって」と、選手や指導者が言うことがあるけれど、多分に建て前か、大きな勘違いか、型通りの答をしただけかのどれかだと思う。


 一方、三十人三十一脚では、全員のペースが一緒にならなければならない。「チーム一丸となって」が前提条件になっているのだ。
 全員揃って、というのは気色悪い。連帯責任とか、強制とかを連想して、嫌な感じだ。
 均質化を目指して、「みんな一緒」を素晴らしいとする考え方が感じられる。どうにも好きになれない考え方だ。


 などと、ブーたれながらも、しばらく見ていた。たぶん、そのとき私は、嫌いなものをクサす暗い喜びを味わっていたのだと思う。


 ここまで書いてきたことは、おおよそ、私個人の好き嫌いについてであって、いい悪いという倫理の話ではない。しかし、いい悪いという問題にしたい気も、少しはある。


 なぜなら、子供達が三十人三十一脚をしながら、竹槍並べてゴールに突っ込んでいくシーンを想像していただきたい。


 嫌な光景だと思いませんか。
 少なくとも私はそうです。


▲一番上の日記へ