官僚的

 役所、官僚というのはしばしば叩かれる。


 「お役所というのはホント、どうしようもないね」とか、「見過ごしてきた○○省の責任は重い」とか、「腐った官僚どもが」とか、まあ、ひどい言われようである。
 実際、言われてもしょうがないときもある。


 役所、官僚の特徴のひとつは、「顔が見えない」ということだ。
 何か問題が起こったとき、しばしば官僚の、特に高いポジションの人間が顔を出すけれども、その名前と顔を3日覚えていられる人は少ないだろう。
 下手すると、3分後には忘れられてしまう。


 まあ、あれは官僚にとっても都合がよくて、役所というのは建前上は組織として物事に取り組むところなので、変に個人が目立ってはいけない。個人が叩かれても褒めそやされても、役所としては困るのだ。
 組織の一員としての個人が出るというより、個人が組織として出てくるのだろう。


 役人もひとりひとりには個性があるはずだが、対外的、特にマスコミに対してはそれが隠れる。そう意識して行動しているのか、自然とそうなる構造というか、型のようなものができあがっているのか、ともあれ、その能面ぶりは見事なものである。


 叩かれても、役所の存続や仕事の進行に大きく関わらない限り、役所側から反論が出ることは少ない。基本的には首と手足を引っ込める亀タイプであって、サササササと逃げるゴキブリタイプや、反撃に出るバッファロー・タイプではない。


 役所を叩く。私も時々、やる。
 もちろん、叩くべき理由があって叩くこともあるだろうが、しばしば「ムシャクシャしたから、誰でもよかった」と、少年犯罪のような理屈で叩くときもある。向こうから反撃を食らうことはまずないから、安全なのだ。


 とりあえずのストレス発散にはなるので、便利な存在である。居酒屋的攻撃対象という意味では、巨人やナベツネ堀内監督と同じだ。


 叩いて大丈夫な相手だから、叩く。役所・官僚を叩く人と、役所・官僚の間には、もちろんケース・バイ・ケースだけれども、剣呑なように見えて、実は甘えに似た関係もあるように思う。


 官僚的であることの効能のひとつだと思う。だって、明日から役所がやたら個人主義的になり、対外的に各役人の責任が明確になって、いっせいに個性全開となったら、居酒屋でクサしにくくなるじゃないですか。


▲一番上の日記へ