飽食の時代

 Googleで「飽食の時代」と検索したら、23,300件も引っかかった。


 Googleのページに表示されるテキストを斜め読みしただけだが(体を斜めにして読むと、疲れるということがわかりました)、「飽食の時代」に批判的な文章が多いようだ。


 糖尿病などの成人病、太りすぎ、栄養バランスの悪さ、そして「清貧」を理想とするような「もしかして悪いことしているんじゃないか」調の文章が目につく。


 もちろん、23,300件全てを見たわけではない。
 最初のほうにある文を読んだだけだが、ある視点が欠けていることが気になった。


 現代は、本当に飽食の時代なのだろうか。


 飽食の時代を批判する人々のうち、かなりのパーセントが、どうやら、デブを批判しているようである。
 いや、デブの人格ではなく、デブになること、そしてデブになることによって引き起こされる害が問題にされるのだ。


 デブになることによって引き起こされる害、といっても、電車の座席ふたり分をひとりで占領してしまう、というようなことではない。


 デブでない私からすると、「等しく支払う電車運賃と享受できる権利」について一言申し上げたいこともあるのだが、今日のところはやめておく。
 いずれ、鉄槌を下すことも考えられるので、デブの人はそれまでに痩せるか、混んでいる電車の中では立つようにしたまえ。ただし、満員電車の中でデブに立たれると、これまたまわりが迷惑するので、デブは、職場まで歩くか、自営業を始めなさい。


 もとい。
 どうも、多くの人々が「飽食の時代」について、根本的に誤った認識を抱いているようだ。


 本質的な問題に対しては、本質的な部分へズバッと斬り込むべきだろう。


 デブは食い飽きていないから、デブなのではないか?


 少なくとも私のまわりに、「飯を食い飽きた」というヤツはいない。腹が減れば飯を食う。しばしば腹が減ってなくても食う。
 特にデブは、たいてい飯を前にした瞬間、嬉々とした表情になる。
 私はその瞬間、「油断」というものをそこに見出す。「今なら、斬れる」と思うのだが、あいにく日本刀を持ち歩く習慣がないので、そやつらの首と胴はまだつながっている。


 あるいは、美食家と言われる人々の中には、ありきたりのものは食べ飽きて、「何か珍しいものを食べたい」と、悶え苦しんでいる者もいるかもしれない。そうして、長屋の連中に酢豆腐なんぞを食わされてひどい目にあうのだが、少なくとも現時点では少数派だろう。


 現代は飽食の時代ではなく、むしろ、人が飽食しないほうに問題がある。
 飽食ではなく、余食。こちらのほうが正解に近いはずだ。


 ともあれ、デブよ。そろそろ、食い飽きたらどうか。
 君達が「これから何を食おうかな」などとのんきに想像しながら、傍若無人に電車の席を占領しているとき、その傍らには、青白き頬の上にマナコばかりを爛々と光らせ、日本刀を持ってこなかったことを悔やんでいる男が、立っているかもしれないのだから。


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