道と術

 武芸では、最初、「〜術」と呼ばれたものが、「〜道」に変わる傾向があるようだ。


 柔術は柔道に、剣術は剣道に、弓術は弓道になった。
 柔道という呼び名を始めたのはたぶん、嘉納治五郎だろう。
 剣道という呼び名はいつからだろうか。時代小説などで「剣術の試合」というのは聞いても、「剣道の試合」というのは聞かないから、明治以降、何らかの組織化が行われてからかもしれない。
 弓道についてはまったく知らない。


 術から道へと変わると、名前だけでなく、何か、その分野の目的自体が変わるような気がする。
 たとえば、柔術、剣術というと、ストリートファイトや戦も含めて、実戦のためのテクニックを磨くという感じがする。
 一方、柔道、剣道となると、道場、試合会場など、状況を限定したものになる。剣術、柔術がたとえ仮想であっても“外の世界”での実用を目的とするのに対し、柔道、剣道は、柔道・剣道それ自体のためにしつらえられた“内の世界”での進歩が目的となる。スポーツ化するといってもよい。


 なんか、小難しい書き方して、スミマセン。大したことは言ってないのだけれども。


 状況を限定するから、「道」という言葉を使える、とも考えられる。
 つまり、生き死にに関わるような世界(戦国時代を考えてみればよい)では、いったん負ければ、下手すればハイ、ソレマデヨ。道を奥へと進むことができなくなる。というか、三途の川への道へと進路変更しなければならない。
 負けてもオッケーという猶予があるからこそ、負けながら強くなっていく、奥深いところへ進んでいける、つまり「道」になるのだと思う。


 剣術については、江戸時代の間に少しずつありようが変わっていったようだ。
 剣術では最初、木刀を使っていた。木刀では、打ち所が悪ければ死ぬ。
 そこで、竹刀というものが編み出され、だいぶ後になってから防具というものが登場したそうだ。


 防具というのは安全面では大きな進歩だったろうが、おそらく、鎧甲での戦闘をすっぱり捨てたことを意味するのだろう。
 なぜなら、面を打つ、胴を打つ、籠手を打つ。いずれも鎧甲の戦闘では、刀の刃を駄目にするばかりで、役に立たない戦闘方法だからだ。
 鎧甲を着けた相手に対する刀剣での戦闘では、喉、脇の下、膝の裏など、覆いにくい関節部分を狙うのが効率のいい戦い方だったらしい。


 呼び名も、兵法→剣術→剣道、と変わってきた。兵法というと、いかにも戦での戦闘方法を想定した言い方だ。刀剣の使い方だけでなく、柔術の原型も含んだらしい。
 砂による目つぶしなど、「道」の立場からすれば、「卑怯」な手も教えたという。まあ、死んだらおしまいだからだろう。


 それが、江戸時代という、鎧甲での戦闘がほとんどない時代に移った。侍という半ば名目的な戦闘者階級が、個人戦を想定して稽古を積むようになり、剣術になった。
 真剣での私闘は原則として禁止されていたようだし、幕末を除けば、そんなに斬り合うことはなかったようだ。ただ、武士としての「覚悟」や、「役目」としての斬り合いはあったろうから、修養としての意味は結構、大きかったのだろう。
 で、明治に侍という階級が消え、個人戦の斬り合いが犯罪になったので剣道になった。


 と、こう考えると、うまく整理できる気がするのだが、合っているかどうか、実証はできない。


 なお、剣術という刀剣を使ったテクニックが、修羅場でどの程度役に立つかというと、微妙なようだ。


 後の剣術の祖流とでもいうべき、新陰流や新当流、中条流はいずれも戦国時代に誕生しているけれども、「そりゃ、便利だ」と、当時の武士達が我も我もと習ったかというと、そうではない。
 「あんなもの、実際の戦では役に立たん」と、案外、無視されていたんじゃないか。


 幕末の血なまぐさい時代に人を殺しまくった新選組斉藤一は、後にこう語ったという。
「真剣の斬り合いというものは、敵がこう斬り込んできたら、それをこう払っておいて、そのすきにこう斬り込んでいく、などということはできるものではなく、夢中になって斬り合うものです」


 山川健次郎博士という人が斉藤一から聞いた話を、黒鉄ヒロシの「新選組」から、ひ孫引きしたものだから、我ながら、危なっかしい引用だ。が、まあ、実際のところ、そんなものだったんじゃないかと思う。


 筋力や反射的な行動、動体視力、肝の据わり方、などは、まあ、稽古を積めば鍛えられて、修羅場でも役に立つだろう。しかし、殺陣のような狭い意味でのテクニックだけを取り出すと、実戦では案外、役に立たない気もする。


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