普遍的田舎言葉

 私が初めて気づいた疑問でもなんでもないのだが、テレビの時代劇で農民独特の言葉遣いがある。


「おら、これから一生懸命働くだ。そして、嫁っこさ、もらうだ」
 とかなんとか、その手の口調だ。
 あんな方言を使う地方はあるのだろうか。あるとしたら、どこなのか。


 中国人のカタコト日本語「ワタシ、○○アルヨ」や、米国人のカタコト日本語「ミーは○○ネ!」というのと同じく、創作物なのかもしれない。


 という疑問を常々抱いていたのだが(その手のどうでもいい疑問は数々抱いている)、もしかしたらあれは落語の世界から来たのかもしれない。


 志ん朝が、江戸近在の百姓が江戸に団子を買いにきたときのセリフを、こんなふうに話している。
「あのー、お団子をまた一文いただきたいんでごぜえますが」
 志ん朝はすでにテレビの世代だからテレビの時代劇から影響を受けたとも考えられるが、その前の世代の志ん生や円生も似たような口調を使う。


 昔は江戸の近在で「ごぜえますだ」という方言を使っており、それが落語から時代劇へと流れたのだろうか。


 もっとも、志ん生や円生の頃にもすでに映画というものがあり、そこでこの口調が生まれた、というのもありえる。あるいは、なーんとなく、「田舎っぽい」ということでできあがっていった、落語オリジナルの言葉遣いの可能性もある。


 まあ、実際にああいう方言を使う地方がある(あった)としても、今では普遍的田舎言葉とでもいうべきものになっている。
 時代劇でも、落語でも、リアリティを追って、いちいちその地方の言葉を研究していたんじゃ手間がかかってしょうがない。
 その点、「舞台は田舎である」ということを示せる普遍的な言葉づかいは便利なものだろう。


 人の概念の中にのみ存在する普遍的田舎世界。プラトンはそれを「田舎のイデア」と呼んだ、と、アリストテレスが「ニコマコス倫理学」の中で記しているかどうか、私には知るよしもない。


 そこでは、代官が無理無体に振る舞い、百姓は泣き、あるいは卑屈で、年をとったおっ父(とう)は90%の確率で病気になり、若い者は健康だけれども無力で、娘は代官に強奪されるか身売りせざるを得なくなり、生糸は大商人に買いたたかれ、水戸黄門がやってきて、由美かおるが入浴するのである。


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