ナマコ

 今朝の朝日新聞の「折々のうた」を読むと、大岡 信がナマコについて書いていた。
 特に感動した部分を引用する。


 ナマコは何とも名づけようのない生きものだったようで、日本では「コ」と呼んでいた。だから生のものはナマコ、海水で煮て干したものはイリコ、腸はらわたの塩辛はコノ腸ワタと呼ばれた。


 いいなあ、「コ」。


 あのシンプルな、というか、こっちがどういう態度をとっていいのか困るような姿によく合っていると思う。
 また、名づけた者は、何となくテキトーに扱ったんじゃないか、と想像させる。「まあ、コかなんか、そういうのにしとけ」と古代の言葉で言ったんじゃないか。


 この日記で時々、引っ張り出すが、私は自分をナマコにたとえることがある。そこらへんにただ転がっている、あのありようにシンパシーと憧れを感じるのだ。


 まあ、これは動物に人間の考え方や感じ方、心理を投影するやり方で、テレビの動物番組によくあるパターンである。
 動物に人格を持たせる童話や童謡と同じで、子供の情操教育としてはよい。いずれ、そこで培われたものが人間に振り向けられるだろうから。
 しかし、大人がこれをやるときは、「人間の物事の捉え方を動物に当てはめて、楽しんでいる」という自覚を持っていたほうがよいと思う。


 なぜなら、例えば、ナマコにはナマコとしての世界の受け止め方があるはずであり、それは人間には理解できない。そうして、こちらの受け止め方を勝手にナマコに押しつけることは、ナマコに対して失礼だからだ。


 と、一応、先に「おれ様はわかっておるのだぞ」とイヤラしく示しつつ、これから、やっぱり人間の世界の受け止め方をナマコに押しつけるのだ。ごめん、ナマコ。


 ナマコが知性を持っていたらどういうものなのかなあ、と想像してみる。
 くどいが、ナマコ的知性ではなくて、人間的知性をもし持っていたら、だ。


 ナマコは、ただそこに転がっている。正確にはゆっくりと地面を這いずりながら、海底の土を食っている。その中の有機物を漉しとり、残りを長いウドンのようなウンコとして出しながら、生きている。


 そうやって、生きる手段は確保しながら、あれやこれやと考える。
 仲間に出会うことはめったにない。ただただ、自分の中で考えを深めていく。哲人(哲ナマコ)への道を歩むナマコもいれば、ひとりでギャグを思いついてはゲラゲラ笑っているナマコもいるだろう。あるいは、ナマコの思い出し笑い、とか。


 と、書いてみて、ナマコには、人間側の意味での情報を手に入れる手段が、ほとんどないことに気づいた。最初に材料なくして、思考の深まりもギャグづくりもできないだろう。


 むしろ、ナマコにふさわしい知のありようは、空なのかもしれない。
 そうか、ナマコは悟っていたのか。


▲一番上の日記へ