アドリブ

 いつも言い訳のように同じ言葉を書いているけれど、この日記は出たとこ勝負で記している。


 なーんとなく、「こういうことについて書こう」というのは最初にある。しかし、あらかじめきちんと流れや論旨を考えて書き始めることは滅多にない。
 たいてい、アドリブ、即興で書いている。


 一番の理由は、流れや論旨を組み立てておくほどの熱意も力量もないからで、二番目の理由は時間もないからだ。それに、あらかじめ決めてしまったら、たぶん、書いていて、途中で飽きてしまうだろう。


 どうも、消極的な理由ばかりだが、消極的な形で生きている男なので、しょうがないのだ。許してくれ、なくても別にいいか。


 が、積極的な理由もないわけではないこともないかもしれなかったりするのだが、今、肯定か否定かわからなくなった。アドリブで書くとこういう弊害もあるわけだ。


 もとい。
 アドリブで書く積極的な理由もある、というか、この間、思いついた。
 それは、自分がその瞬間に書いていることについて、ヴィヴィッドでいられるということだ。


 たとえば、ジャズは基本的にアドリブ、即興性が重視されるけれども、あれは自分が出す音に対してヴィヴィッドでいられることを大切にしているからだと思う。
 自分やまわりが今、出した音に触発され、時にはコーフンして、次の音をひねくり出す。その音にまた触発され、コーフンして……と演奏していくと、独特な高揚感が生まれる。それがスウィングというやつではないか、と、今、即興で書いた。


 その代わり、自分やまわりが出した音に触発されなかったら、悲惨だ。
 同じプレーヤーでも、異様な輝きを放つ演奏もあれば、おざなりに音を並べた演奏もあるのは、触発されるかどうかにかかっているんじゃないか。


 たぶん、触発されるかどうかについて、自分でコントロールできる範囲はあまり広くない。
 ウルトラ・スーパー・グレートな演奏になるか、ダメn(ただし、nは正の整数)になるかはそのときにならないとわからないのだろう。そういう意味では、バクチのようなものである。


 しかし、全てをその場でつくる、なんて、創世神話みたいなことはなくて、その人なりのリズム感や得意フレーズ、過去に見聞きしてきたもの、は素材として、元々、ある。
 出た音に自分で触発されて、次に何を出すかはそれらの素材にかかっていると思う。まあ、偶然、今までなかったすんごいものが飛び出すことだってあるだろうが。


 落語でも、志ん朝はあらかじめ話の運び方、入れるクスグリを決めて話していたようだが(丁寧にネタを記したノートが残っているそうだ)、談志や志ん生はかなりアドリブ度が強いと思う。
 志ん生は同じ噺でも、毎回、入れるネタが違う。出来のいいときは、古今東西、誰もかなわないほど面白いが、なんだかだらしないまま終わってしまうときもある。
 たぶん、調子がいいときは、自分が話したことに自分で触発されて、どんどん乗っていったのだろう。


 志ん生は、若かったある時期、噺を学ぶのを一切やめて、自分で噺を組み立てていく練習を続けたそうだ。
 もの凄くたくさんのネタを持っていたそうだけれど、たぶん、得意ネタ以外は大筋のストーリーを覚えていただけなんじゃないか。
 ただ、即興で話す技が上手いので、おおまかに覚えておけば、いかようにでもその場で話せたんだと思う。だからこそ、ネタ数も多く持てたんだろう。


 なんだか、自分がジャズのグレートなプレーヤーや、志ん生、談志と並ぶみたいな書き方だけど、もちろん、そこまで卑怯者ではない。私は外国人に千利休を自慢する輩とは違うのだ。ハッハッハ。参ったか。
 ただ、そういう、自分で書いたことに触発されてまた書いて、というやり口もアリだろうとは思うのだ。私のしょうにも合っている。


 まあ、低級な人間が触発される対象は低級だから、そこから出てくるものも低級なものになる。そこらへんがいかんともしがたいところではあるのよねん。


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