なぜ笑えるのか

 なぜ笑えるのかについて考えることと、笑うことは、別の話である。
 人が笑う理由がわかったからといって、笑うことはできないし、たぶん、あまり笑わせる役にも立たない。


 美人を解剖して美人たらしめている骨格を知ることと、美人と○○○○することは別なのだ(○○○○に入るのは、もちろん「おはなし」である)。


 しかし、物事をリクツで捉えるのは、それはそれでひとつの楽しみだ。


 志ん生にこんなギャグがあるという。もっとも、私は直接聞いていない。談志が志ん生のギャグの一例として挙げていたものだ。


 剣も、本当の達人同士の果たし合いとなると、激しい打ち合いにはならないそうですな。
 勝負は一瞬で決まる、というので、刀を構えたまま、ジッと睨み合いになる。
 睨み合ったまま、1時間くらい経ってしまう。
 途中で、間を自転車やなんかが通る。


 私の筆力で、このおかしさが伝わるかどうかわからないが、志ん生が語っているところを想像すると笑える。


【2005.1.19付記:談志は、権太楼(たぶん、初代)のギャグとして紹介しておりました。訂正いたします。】


 このギャグで間を通るのは、自転車でなければならない。クルマでも、徒歩の人でも、赤とんぼでもダメだ。
 もっとも、杖をついた婆さんが通るのなら、おかしい。クルマでも、タクシーなら笑える。


 なぜ、自転車、杖をついた婆さん、タクシーだと笑えて、ただのクルマや徒歩の人では笑えないのか。
 その理由がわかれば面白いだろうけど、今のところ、私にはわからない。


 「緊張と弛緩」が笑う理由だ、という説があるそうだ。
 つまり、緊張していて、フッとゆるんだときに、人は笑うというのだ。


 確かに、上の引用では、達人同士の刀を構えての睨み合いという「緊張」が、間を自転車が通ることで「弛緩」する。
 しかし、なぜクルマや徒歩の人では笑えないのかの説明はできない。


 談志も、この「緊張と弛緩」説には疑問を持っているようで、「ジャングルに兵隊が隠れていて、敵兵が近づいてくると緊張する。その敵兵がそのまま通り過ぎれば、これは弛緩するわな。でも、このとき、笑うかね?」というようなことを言っていた。


 志ん生の「宮戸川」でのギャグ。女嫌いの甥に、叔父さんが変テコな説教をするシーンだ。


「また将棋でしくじってきたんだろ。よせやい、いい若いもんが将棋でばかりしくじんのは。
 たまには色っぽいことでしくじってこいっ!
 叔父さんなんざ、てめぇぐらいの時分にはな、女ができてしょうがなかったもんだ。町内歩くったって、女が邪魔になるから、女の間を『ごめんなすって、ごめんなすって』と、よけて通ったものだぞ。
 車、引いてたけれども」


 これに、「緊張と弛緩」はあるだろうか。私はあまりないと思う。
 たぶん、「緊張と弛緩」というのは、あくまで笑わせるテクニックのひとつであって、根本的な原因ではないと思う。


 南伸坊が以前、「人間が笑うのは、脳が困ったときではないか」という仮説をよく書いていた。


 なるほど、上のふたつの引用文では、どちらも意外な言葉がひょいと出て、人は笑う。意外なことが出ると、脳が困る、と考えることはできる。
 あるいは、猥談のウヒヒヒヒという笑いや、結婚式や葬式などの厳粛な場でオナラをプゥとやるおかしさは、タブーを破り、脳が困るから、と説明できる。


 さらには、異常な事態に置かれると脳は困るだろう。そんなとき、人はしばしば恐怖を感じる。
 笑いと恐怖は近い、とよく言われるけれど、その説明にもなる。


 しかし、上のほうの引用で、自転車だと笑えて、クルマや徒歩の人では笑えない理由を、「脳が困る」説では捉えられないようにも思う。


 自転車だと脳が困るけど、クルマや徒歩の人だと困らないのか。
 どうもよくわからない。


 美人の解剖は、さしたる成果が挙がらなかったようだ。しかも、後に残されたものは、メチャクチャだ。すでに美人でなくなっている。


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