この頃、文字を読んだり、言葉を聞いたりすると、ふと駄洒落が思い浮かぶことがある。
たとえば、「通貨」という言葉を見て、「通貨っつーか」などという、しょうもない文句が湧いて出てしまうのだ。
実によくない傾向である。
人生には駄洒落期とでもいうべき時期があると思う。もちろん、個人差は大きいが。
ガキは、総じて駄洒落を喜ぶ。
中学生の頃からだんだん駄洒落がダサいものとなってきて、20歳くらいになると、白眼視するようになる。
中年になりだす頃から、また駄洒落が増え出して、老人は……どうだろう。よくわからない。
人生の長さからすると、むしろ駄洒落期より非駄洒落期の方が短いようにも思う。
もっとも、人生ずーっと駄洒落好きという人もいて、偉大なる林家ペー以外、こういうのは放っておくしかない。
よくオヤジ・ギャグと言われるけど、大半が駄洒落だと思う。
オヤジ・ギャグがなぜ馬鹿にされるかというと、ギャグの送り手と受け手にズレがあるからだ。送り手が受け手についての計算を誤っているか、もしくはハナから計算していないのである。
シャレ自体は別に悪くない。
「洒落のわかるやつだ」とか、「洒落てるね」なんていうふうにも言われるくらいだから、むしろプラス側にあるかもしれない。
しかし、駄洒落になると、「駄」の字がつくことでもわかるように、これはもう駄目だ。
私は今、得体の知れない不安の中にある。
オヤジ・ギャグへの過程にあるのか。あるいは、自分で気づかぬうちに、すでにオヤジ・ギャグの中にすっぽりハマっているのか。
なぜなら、オヤジ・ギャグを連発する人は、自分がオヤジ・ギャグを吐いていることに気づいてない場合が多いからだ。
ところで、なぜオバハン・ギャグとは言わないのだろうか。
オバハンはあまりギャグを飛ばさないからか。それとも、オバハンであること自体が、既にギャグだからだろうか。