頭の中でうまくまとまらないままに書く。ぼうっと霞の曖昧ミーマインである。
自分で判断のつかないところもあり、知識に乏しいところもあり、何より考える力と根気の足りないままに書くので、間違っているところや別の意見などあれば、ご教示いただきたい。
まあ、例によって出たとこ勝負ということなのだが。
昨日、ちらりとかすった、学校での国旗掲揚・国歌(君が代)斉唱の問題である。
学校などという畏れ多い場所の半径300m以内には入らないようにしているのだが、ニュースを見聞すると、教育委員会側では国旗掲揚・国歌斉唱のときに立て、と言い、教員の中には立たない人々がいる、らしい。
でもって、処罰するだのしないだの(どっちだ!?)という騒ぎになっている、らしい。
それが、主に狭量で威勢のいい都知事のいる東京都に限った問題なのか、その他の道府県でも起きている問題なのか、私は知らない、らしい。
どうやら、私は馬鹿、らしい。
知識に乏しいため、歯切れの悪い書き方しかできないのだが、教育委員会側、立たない教員側ともに、どうも重々しく考えすぎなんじゃないか、と思わないでもないこともないこともなかったりする、たそがれの私なのである。
君が代なんざ、たかが歌なんだし、立とうが座ろうが、テキトーに歌っておけばいいじゃん、と思うのだ。
君が代を歌ったからといって、生徒達が戦前のようなファッショ的天皇教に向かうとは思えない。
イギリスで、ガキどもが「God Save the Queen」を歌ったからと言って、国粋的になるだろうか。
むしろ、立つの立たないの、歌うの歌わないの、と君が代を特別視すればするほど、君が代に重い意味が付け加わっていく。
中学生の女の子の恋のようなものですね。
恋というのは素晴らしい、などと吹き込まれて、ちょっと気になった男の子のことを考えるようになる。
初日はちょっと考えて、2日目はそこそこ考えて、3日目にはものすごく考えてしまう。
女の子の中で、その男の子の存在がどんどん大きくなる。実像とはかけ離れて。
でまた、こやつには余計な女友達というのがいて、相談に乗ることを内心楽しみながら、いろいろとけしかけたり、意見を言ったり、同情した(フリをした)り、突然、抽象的な話になったりする。
今を去ること二十数年前、凄まじい美少年だった私は、その種の手合いに随分迷惑しましたよ、エエ。
そんなことはどうでもいい。
つまり、えー、何の話だっけ。
そうそう、歌に重い意味を持たせすぎ、ということだった。
国粋的な人々や、天皇教の人々が君が代に重い意味を持たせるのはわかる。それはそれで、信念なのだからそうすればよい。
しかし、その反対の立場の人々が、拒否することによって、かえって君が代に重い意味を持たせてしまっている。
記号性を自ら強めちゃっている、っつーんですか。気に入らないんなら、記号性を弱めた方が得策だと思うのだが。
ちなみに、私はずっと地方の公立校を進学してきて、君が代も結構、歌う機会があったけれども、別に天皇教徒にはなっていない。同級生の多くもそうだと思う。
「信念」とか「真剣」って、リッパなことに捉えられがちだけれど、ほどほどの方がいいときもあると思うんですよ。
重いものと重いものがぶつかると、危険ですから。
「そうやって戦前は流されていったんだ」という意見もあるかもしれないけど、私は戦前に生きていないし、きちんと勉強していないんで、正直、わからない。
ただ、この、ふにゃふにゃの日本、まだ、そんなにシリアスな時代の分岐点にまでは来ていないと思う。そもそも、天皇教が世を覆うほど復活するとは思えない。
ヒステリックに振り子の振れ幅を大きくしたせいで、一方向へ時代を持っていってしまう場合もあるんじゃないでしょうか。
で、以前にも書いたことがあるが、私に妥協案がある。
君が代の短縮バージョンを国歌にするのだ。
♪き〜み〜が〜ぁ〜、よ〜ぉぉだ〜。
(♪レ〜ド〜レ〜ミ〜、ソ〜ミレラ〜)
以上。
スメラギの御代を寿ぐ意味もあり、しかもすぐに切り上げられる。
私は、勝負はさっさとついた方がよい、と考えているので、その点でも好都合だ。
テキトーであることの効用って、結構、あると思うんだけどなあ。まあ、体面やなんかで、後に退けなくなっている人もいるのかな。