引っ越し歴

 今日も、引っ越し方面の話を書く。
 他に、これといって書くこともないのだ。
 一昨日、昨日と合わせて、「稲本喜則 引っ越し三部作」とでも呼んでいただきたい。内容は大変に乏しいけれども。


 実家以外のところに最初に住んだのは大学に入ったときだ。杉並区高井戸の六畳間で、台所とトイレは共同。
 一階には大家の婆さんが住み、二階を学生達に貸していた。いわゆる間借りというやつだ。家賃は3万円台だったと思う。地方から東京に来た学生の、まあ、ありふれた形だと思う。
 これといって書くべきこともない部屋だったけれども、窓の外がテニスコートだったので、眺めはよかった。テニスをしているのは、残念なことにオバハン連中だったが。


 ここの大家の婆さんと懇ろになり〜、なんて昆布茶な話は当然なく、大学3年生になるとき、アパートに引っ越した。
 杉並区の久我山で、四畳半と六畳間。トイレはついていたが、風呂はなかった。銭湯暮らしで、これも学生らしいといえば学生らしい。
 向かいが小学校で、朝は登校するガキどもがピーチクパーチクうるさかった。時々、可愛い少女を騙くらかして連れ込んで〜、などということもなく、バカ学生だったので授業にも出ず、その当時、毎日、何をしていたのか、あまり記憶がない。
 ただ、授業の開始をつげるチャイムが鳴るので、朝は割ときちんと起きていたと思う。


 社会人となり、最初は大企業に勤めた。調布の社員寮に入った。ウナギの寝床のような長っぽそい部屋で、ベッドと机、収納があるきりだった。まあ、独房か、個室の病室みたいなものですね。
 そこにいたのは全員新入社員だったので、部屋を行き来したりして、結構、楽しかった。多摩川べりで、休日にはよく散歩した。


 その会社は1年で辞め、出版と物販をしている六本木の会社に転職した。
 地下鉄の日比谷線東横線に乗り入れているので、東横線沿線で部屋を探した。都心に近いと家賃が高く、だんだんだんだん下ってきて、日吉に住むことにした。以来、ずっと日吉にいる。


 日吉の最初は間借りだった。一軒家で、大家さんとは玄関が別になっていた。四畳半と六畳間。
 部屋の中に電話ボックスみたいなシャワーがついていた。ついていたというより、置いてあった、といった方がいいかもしれない。ちょっと妙な感じだった。


 2年間住んだが、大家さんの息子が結婚することになり、明け渡さなければならなくなった。
 次に住む部屋は見つけたが、その部屋に入っているやつがなかなか出ていかず、こっちの方には改築する大工さんが入ってきた。
 朝の八時頃に大工が来て、出社する私と入れ替わる。玄関側の四畳半の床板を全部剥がしてしまい、根太の横木の上を歩かなければいけなくなった。
 そのうち、トイレが壊された代わりに階段が出現した(やけに手際のいい大工だった)。その階段をあがって、大家さんの方のトイレを借りることになった。


 ようやく空いた次の部屋は普通のアパートだった。六畳と台所、シャワーがあるっきりで、特にこれといって書くことはない。
 その割には、長い間住んでいた。サラリーマンを辞めてフリーになり、最初は収入が少なかったせいもある。


 次がマンションで、5階だった。眺望はよかったが、エレベーターがなかった。
 外へ出るには、行き来で合計10階分の上り下り。ゴミや古新聞を大量に処分するときには、3往復するときもあった。計30階分。多少は心肺機能が高まったかもしれない。


 で、先日、現在の部屋に引っ越したわけだ。
 1階で、外が庭になっている。広葉樹が何本も植えてあり、晴れると日光に葉が透けて、なかなか風情がある。
 今朝はウグイスだろうか、小鳥が三羽、木々の間を飛び交い、木の実をつついていた。


 和室を仕事用に、洋室を生活用に使うことにした。畳の上の座卓でカタカタ文章を書いている。
 これで和服でも着れば作家みたいだが、書いている文章が「だったりなんかして〜」などという軽薄極まりないものなので、よしとくことにした。


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