今日は歩のパワーを炸裂、じゃなくて、負のパワーを炸裂させてみたい。余計な変換をしやがる、このワープロ・ソフトは。
今までにも何度かクサしてきたが、「地球が泣いている」という類の表現を好む人がいる。
地球って、泣くのかね?
その前に、「地球は生きている」と言い出す人々がいる。これも、ストレートには納得できない。
「生きる」という現象の定義、なんて話になると、哲学方面に踏み込まなければいけなくて、私の手には負えないが、生物学的に捉えるなら、たぶん、地球は生きていないと思う。
「地球は生きている」なんていう考え方を日本で広めたのは、手塚治虫が犯人ではないか、とにらんでいる。例の「火の鳥」だ。
私も十代の頃は「火の鳥」を楽しんで読んだけれども、まあ、ああいうのはロマンだ。曖昧なままに現実とごっちゃにしてはいけない。
「地球は生きている」、「地球が泣いている」というのは、一種の詩的表現だ、という人もいるだろう。
それならかまわないけど、随分、陳腐な表現だと思う。せめて、「地球は爆笑している」とか、「地球は鼻血が止まらない」とか、そのくらいまでは行ってほしい。
一方で、詩的表現、比喩ではなく、本当にそう考えている人もいそうで、困ったものだ。別に困ることはないか。
インターネットで検索してみると、「地球が泣いている」という言い方は、森林破壊だの、ゴミの不法投棄だの、砂漠化だの、オゾン層の破壊だのに結びつけられているようだ。ひどいのになると、戦争と結びつけている人までいる。
あのねえ、と思う。
泣きたいのは、地球じゃなくて、あなたなんじゃないの。
あるいは、その土地に住んでいる人々とか。泣くのかどうかは知らないけど、その土地にいる生物も生存の条件が厳しくなって、困っているかもしれない。
だからといって、それは地球が泣いていることを意味しない。
たとえば、環境保護に取り組む人の中には立派な人もいると思う。志の点でも、うまいやり方を考え出して実現していく点でも、大したものだ、と感心することもある。
一方で、「地球が泣いている」なんていう、いい加減な話に浸る人々の姿は好きになれない。不正確で、安易な情緒に流れる分、やり方を誤らせることすらあると思っている。
もし「地球が泣いている」というのなら、その証拠を見せてもらいたい。
言っておくけど、洪水の写真だの、砂漠になって人々が困っている写真を持ち出しても、それは「地球が泣いている」ということを意味しませんよ。
何かしらの原因があって、その結果だということまでしか、人間には言えません。宗教的啓示は別として。
こう書いてみると、さして負のパワーは炸裂しなかった。歩のパワー、というワープロ・ソフト様の予言は当たっていた。
泣きたいのは、私だ。