人間国宝

 また落語の話になってしまう。
 ただ、内容的なことは書かないつもりなので、通ぶったふうにはならないはずだ。ま、例によって出たとこ勝負で書くので、どうなるかはわからないけれども。


 人間国宝と呼ばれる国宝な人々がいるが、あれは重要無形文化財保持者のことで、通称なのだそうだ。
 昨日書いた国民栄誉賞とは違って、「よくやりました。パチパチ」という顕彰の意味はなく、貴重な技を持っている人が指定される。厳密には、「人」や「業績」ではなく、「技」の問題のようだ。
 もちろん、貴重な技を持っている人は素晴らしいと世間では思うだろうから、間接的に「人」や「業績」も褒め称えられるだろうけれども。


 古くから日本にある技芸が対象で、いくら貴重な技術を持っているからといって、キグレ大サーカスで球の中をオートバイでぐるぐる回っている人達が指定されることはない。


 陶芸、染色、金工など、工芸の分野で指定される人が多い。
 落語の分野では、私の記憶では、故・柳家小さん桂米朝が指定された。


 彼らの技芸についてどうこう書くつもりはない。というか、好き嫌いは言えても、客観的にどうこう言えるほどの力はない。あくまで「人間国宝に指定される」ということの印象についてだけ、書く。


 人間国宝に指定される人物が出ると、その分野は廃れる過程にあるように感じる。


 指定されるということは、その技が貴重だということだ。そうして、「こうした素晴らしい伝統的技は、次代に継承されなければならない」という言外の主張が込められる。
 貴重で、国から「誰かに継承させたい」と言われることは、継承できそうな者が少ないことを意味する。
 たとえば、広隆寺弥勒菩薩レベルの仏像がわんさとあったら、国宝には指定されないだろう。


 そういう意味では、人間国宝というのは、天然記念物のようなものだと思う。
 天然記念物、柳家小さん。妙にぴったり来るところが、おかしい。


 もうひとつ、国が重要無形文化財に指定すると、技が固まってしまった印象を受ける。しかも、その技を国が「継承させたい」というのだから、これは落語にそぐわないように思う。


 落語では技も大事だろうけれど、技が本質ではないように思うのだ。大元に本質の何かがあって(この何かの正体は、私にはわからない)、各人、いろいろ工夫したり、誰かの技を真似たり、新しい技をつくったり、と、そういうものなんじゃないか。


 どうも、実力が不足すると、生半可なふうにしか書けない。馬鹿の生半可の記録として残しておく。後で読み直したら、自分で穴を掘って、入ってしまうかもしれない。


 まあ、たぶん、国が重要無形文化財などと言い出すと“高尚”の手垢がついてしまい、それが不快なんだろうと思う。
 ウンコ、チッコ、バヒュ〜ンの入る(出る?)ところが、落語の好きなところだ。


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