国民栄誉賞

 イチロー国民栄誉賞を断り続けている。打診に対して、「自分はまだ発展途上。野球人生を終えた段階でいただけるよう頑張りたい」と返答したそうだ。


 返答のどこまでが本心で、どこまでが建て前なのかはわからない。あくまで想像だけれども、特にほしくはないのだろう。


 「もらったら、モチベーションが下がる」とも答えているそうだ。これはウソだろう。イチローは別に国民栄誉賞をもらいたくて野球をやっているわけではない。モチベーションが下がるはずはない。
 たぶん、「国民栄誉賞なんぞいらない」という気持ちの「なんぞ」の部分をゴマカすために、相手(国民栄誉賞)の顔を立てただけなのだろう。


 ニュースの特集などでたまに見る程度だけれども、イチローの言動からは、日本人の代表としてMLBで戦っている意識を感じない。
 最も優れた野球選手達が集まる場所がMLBで、自分に野球選手としての高い才能があるからMLBで戦っている。それだけのことだろう。


 私自身は、国民栄誉賞ナショナリズムと政治利用(人気取り)の色彩がロコツで、なくした方がいい賞だと思っている。


 国民栄誉賞の表彰規定は「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績のあった者」だそうだ。
 イチローはこの規定を満たしているだろうけれども、しかし、イチローによってもたらされた「明るい希望」の正体とは何だろうか。


 イチローが凄いのはイチロー自身が凄いのであって、別に日本人が凄いわけではない。
 同じ理屈を使うなら、ダメな私は日本人だから、日本人はダメだということになってしまうではないか。申し訳ない。
 「広く国民に軽侮され、社会に暗い失望を与えることに〜」。そんな大物じゃないか。


 あるいは、「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績のあった」と首相が判断したのなら、イチローの意思とは関係なく、賞状か何かを書留で送っておけばいい(内容証明を使うのも、いいな。速達も笑える)。賞の主旨に沿えば、そういうことになる。


 国民栄誉賞は、「国民」と「栄誉」が余計だ(誰の「栄誉」なんだろう?)。しかし、両方省くとただの「賞」になってしまうので、「凄いことをやった人賞」にでもしておけばいいんじゃないか。


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