二千円札

 かつて二千円札というものがあった。


 あったというか、今も別に廃止にはなっていないはずだ。
 半年ほど前だったか、蕎麦屋で店員から非常に申し訳なさそうに「二千円札が混じってもよろしいですか」と、お釣りとしてもらったことがある。


 私ももらって、ちょっと困った。どこで支払ったかは忘れたが、渡すとき、今度はこちらが申し訳ない気持ちになったような、かすかな記憶がある。


 私が最近目にしたのはその程度で、ほとんど見かけないけれども、あれ、もしかしたら、ひそかに回収されているのかもしれない。


 二千円札を出すことになった経緯はよく覚えていないが、小渕首相(当時)が2000年を前にして、思いつきのように「二千円札を出す」と言い出したのではなかったか。


 二千円札の被害総額は、トータルでどのくらいにのぼるのだろう。


 新紙幣を作るには、図案はもちろん、偽造防止のあれこれを細工したり、印刷局で機械を交換したりと、いろいろ税金が投入されたはずだ。


 世間はもっと大変で、何しろ、商店がレジを二千円札対応のものに取り替えなければならなかった。その費用は、どのくらいにのぼったのか。
 しかも、レジを新注しても、なかなか肝腎の二千円札は来ない。費用対効果は悪そうである。


 レジのメーカーは儲かったろう。
 そういう意味では有効需要を引き出そうという作戦だったのかもしれないが、レジのメーカーが儲かれば景気が浮揚するほど、日本の経済は単純ではないだろう。


 不景気の折だったし、商店はレジを新注する分、他の費用を削ったりして、別に景気の刺激にもならなかったんじゃないか。そこらへん、私にはわからない。
 あるいは、レジを新注した費用の分、アシが出てつぶれてしまった、なんて洒落にならない。


 あ、あと、ATMとか、券売機とかも直すか入れ替えなければいけないな。


 さらには、金額換算は難しいだろうけど、心理的被害というのもある。日本のあちこちで、二千円札を渡す方も渡される方も、何となく困った気分になったのだ。
 お金で売れない迷惑もある。


 二千円札というのはまったく迷惑な存在だが、その政治責任はどこにあるのだろう。小渕首相が亡くなって、それで終わった話なのだろうか。ま、そうなんだろうな。


 「責任者、出てこい!」と、故・人生幸朗師匠と化して叫んで、「ハイ、私です」と小渕首相の幽霊が出てきたら、嫌だな。
 いや、面白いか。幽霊が、両手で冷めたピザを差し出していたりして。たまたま財布に二千円札が入っていたら、そのピザ、小渕首相の幽霊から買うね。記念に。


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