千と千尋の神隠し

 ATOKで「せんとちひろのかみかくし」と打ったら、分節なしで変換したので、驚いた。
 そういうところはしっかり作ってあるのに、旧仮名遣いはちゃんと変換してくれないので、どうにかしてほしいと思う。


 ま、そんなことはいいか。


 世の中にはファンが多く、権威があるので、批判するのが何となく憚られる存在がいる。
 たとえば、司馬遼太郎宮崎駿がそうだ。


 いや、もちろん、批判したっていいのだけれども、気が小さいので、地雷原を歩いているような気持ちになるのだ。
 しかし、今日は気にせず書いてみよう。稲本クン、ファイトゥ!


 私は、20代の頃、司馬遼太郎にハマっていた時期があったし、宮崎駿の作品も、ファンというほどではないけれど、テレビでたまたまやっていれば見ていた。


 しかし、今はどちらも敬遠気味である。
 司馬遼太郎は、彼の「日本人論」や歴史の捉え方が怪しく思えて、あまり読む気がしない。娯楽小説としてはなかなかよくできたものもあると思うけれども。


 宮崎駿も敬遠していたのだが、世評も高いことだし、昨日、「千と千尋の神隠し」を借りて、見てみた。


 実は挑戦するのは二度目だった。前にテレビで放送したときに見てみたのだけれども、初めの方の黒柳徹子みたないボスの婆さんが出てくるところで嫌気がさして、見るのをやめた。
 嫌気がさした理由はあまりよく覚えていないけれども、「ああ、また例の大仰な演出か」と感じたからだったかもしれない。


 今回は我慢して見てみた。


 結果からいうと、やはり、食わず嫌いというのはよくなくて、あれだけの世界観を作り上げられるというのは大したものだと思った。


 一方で、やはり心からは楽しめないところがあった。
 何でだろうなあ、と考えてみたのだが、いくつかの理由があるようだ。


 まず、私は、セルアニメ全般があまり好きではない。というか、セルアニメ全般に共通する、ある種の演出の臭みやあざとさが苦手というべきか。どうもうまく説明できないのだけれども。


 それから、これがたぶん、宮崎駿の作品について大きいと思うのだけれども、主人公達がまっすぐで純真で心映えが素晴らしく、いつも申し訳ない気分になってくる。
 こちらのひねこびているところを責められているような気になり、「すみません、すみません」とぺこぺこ謝りながら見なければならないのだ。


 「千と千尋の神隠し」についても、いい子達がいい人達の助けを得て困難を乗り越える、という、いつものパターンを踏襲していて、私は最後には「堪忍してください、堪忍してください」と、泣きながら床に額をこすりつけていた。


 まあ、しかし、最大の理由は私のメジャー嫌いということだろう。あまりに巨大で人気のあるものを、「ケッ」と思ってしまうのだ。だから、東大寺に行くと、大仏さんに「ケッ」と言う。


 これが、まさに私のひねこびた部分で、まったくもって理不尽、非合理である。コンプレックスというか、自我のでき方に問題があるのだろう。


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