あざとさ

 この日記を自分で読み直すと、「あざといなあ」と思う部分が多々ある。臭気ふんぷん、と言ってもよい。


 どういうところがあざといかというと、ウケを狙っているのが見え見えの部分だ。
 面白いかどうかはまた別問題で、面白くてもあざとい、あざといけど面白い、ということもある(あざというえにツマンないという、最悪な組み合わせの方が多いけど)。
 ともあれ、計算が見えると、どうやらあざとく感じられるらしい。


 いや、面白いかどうかも関係するのかな。計算だなんだなどと考えられぬほどにドカンと大受けすれば、あざとさも感じられまい。


 ウケを狙うからあざとい、と、単純には言えない。
 たとえば、ウケを狙わない落語というのは考えられないけれども、いい落語家の噺、クスグリにはあざとさを感じない。


 彼らは師匠から習った噺をそのまま繰り返しているわけではなくて、自分なりの工夫を盛り込んでいる。
 そこには計算があるはずなのだが、上手い人のギャグはごく自然だ。
 大受けするから、とも限らない。くすりとさせる程度のものでも、計算を感じさせない。


 一方で、「まだまだ勉強中」という落語家のクスグリには、しばしばあざとさを感じる。
 あるいは、漫才やコントでも、「あざといなあ」と思わせるものと、思わせないものがある。


 その違いはどこから生まれるのか。話芸や動き、文章なら書き方なのだろうけれど、まだその正体はつかめない。


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