今、着服がブーム、なのかどうか知らないが、たぶん、そうではないだろう。
世間一般で均すと、いつもある程度のお金は着服されており、ただ、時々、ニュースバリューのある着服が飛び出すのだと思う。着服にも、スター性のあるものとないものがあるのだ。
だいぶ昔だが、勤め先の銀行(信用金庫だったか?)のお金を何億円だか男に貢いだ、いとうもとこ(字は忘れた)という女性がいた。彼女なんて、とても華があった。
当時、中学生だった私は彼女に淡い恋心さえ抱いた、と言ったら、かなり過言である。
NHKの職員による着服は、ひとりが番組製作費から企画会社に不正支出させ、937万円のキックバックを受けていた。
その他にも6人の着服、流用、不正経理、水増し請求が明らかになっている。
芋蔓式というのとはちょっと違うけれど、こういう話は、しばしば連続してバレる。おそらく、マスコミが集中的に取材するからだろう。社内調査や内部からの告発の機運も高まるのかもしれない。
3、4年前だったか、全国あちこちの警察の不祥事が連日のごとく報道された時期があった。
あるいは、医療ミスがやたらと取り上げられたときもある。
統計的に考えれば、理由がないのに、ある時期にだけ不祥事やミスが集中するとは考えにくい。マスコミの取材の矛先が、現在、どこに向かっているかがポイントなのだろう。
感心したのは、7億5千万円を着服していた千葉市の郵便局長である。着服も、ここまで来れば剛胆で、大したものだ。
いや、皮肉ではなくて、気の小さい私は素直に感心している。
どういうものなのだろうか、億単位で着服を続けるときの心理というのは。
さっき、昨日、スタイルシートをいじった、と書いた。
本当は仕事があって、そんなことをしている場合ではなかったのだ。
締め切りがあるのに他のことをすると、何となく気ぜわしく、ハラハラして、それでいて、不思議な快感を覚える。
浮気と同じで、「〜であるべき」、「〜すべき」から離れて、浮遊する快感なのかもしれない。浮気は浮気だから快感なのだ。よく知らんが。
着服を続けて、もう後戻りできないところまで来たときにも、同じような「どうとでもなれ」という快感があるんじゃないか。
いや、仕事から逃げてちまちまとスタイルシートをいじっている馬鹿と、7億5千万円を使い込む人物とでは、スケールが違いすぎるけれども。
四畳半一間で育った子供を潮干狩りに連れていったら、足跡がきっちり四畳半の範囲に収まっていた、というおかしいような、哀しいような話もある。
私は四畳半一間側だ。