著作権

 今日は、つまんない話。え、いつもだ? ハイハイ。


 数日前に、「著作権問題を考える創作者団体協議会」なる団体が新聞に一面広告を出していた。
 メインコピーは、


日本文化は、なぜブームで終わるのか。


 何だ何だとボディコピーを読んでみると、著作権の保護期間を、日本でも著作者の死後50年から70年に延ばしましょう、という話。
 先進国では、最近、死後70年になりつつあるとか。


 コピーを取り囲むようにして、「著作権問題を考える創作者団体協議会」の加盟団体の怪鳥、じゃない、えー、会長とか、理事長とか、理事クラスの人がいろんなことを言っている。


 何だかなあ、と思った。


 わたしが言うのもアレだが、まず、広告の作り方が下手だ。


 著作権の保護期間を著作者の死後50年から70年に延ばす、ということと、日本文化がブームで終わる(のかどうだか知らないが)ことはさして関係ないだろう。


「日本文化は、なぜブームで終わるのか。」というのは、そこそこの強さを持つコピーだけれども、内容まで読んでしまうと、「結局、利権の話なのね。きれいごとに見せかけて」と、逆に悪印象を与えかねない。


 加盟団体の怪鳥、じゃなかった(今のはわざとだ)、会長、理事長、理事クラスの人が言っていることも、何だか説得力がない。


 大ざっぱに分けると、こんなのがある。


・私たちは命を削る思いで作品を作っている。
・日本の文化を大切にすべきだ。
著作権を守ってください。
・先進国が死後70年になっているのに我が国で死後50年なのは不公平だ/ハンデだ/損だ/異常だ/不名誉だ/文化の貧しさだ。


 上の3つと、最後の死後70年への延長の話はあんまり関係ないだろう。少なくとも、わたしには関係が読みとれなかった。わたしが馬鹿なのだろうか。


 この広告、変に情に訴えようとか、きれいごとにしようとして、失敗したんじゃないか。
 もっと死後70年にすべき理由に絞って、説得すればよかったのに。自信がなかったのだろうか。命を削る思いで創作している人達が。

50年→70年?

 もうひとつの、何だかなあ、は、もっと根本的なことで、死後70年に延長すべき理由が、今いちよくわからない。


 広告の中で、ある人が「保護期間の延長は作品の産み手である著作者にインセンティブを与え」と言っているけれども、「死後70年に伸びたか。よし、もっとガンバって作ろう!」と考えるやつなんて、まずいないだろう。


 死後70年に延ばしたら日本の文化に寄与する、というリクツも、よくわからない。


 考えようによっては、とっとと著作権が切れて、日本生まれの作品が勝手に海外に広まっていったほうが日本の文化の浸透につながる、という見方だってできる。


 国内でも同じで、例えば、落語で著作権を言い出したら、三遊亭円朝(1839 - 1900)作の「芝浜」、「文七元結」、「四谷怪談」、「死神」なんて、1950年(延長すれば1970年)まで、著作権者から許可を得たやつしかできなかったことになる。
 芝居にするなんて、もってのほかだったろう。


 噺というのは、いろんな落語家がやって、評価されたり馬鹿にされたりしながら、工夫と取捨選択が重なって伝わっていく。著作権で縛ったら、これらの噺、間違いなく消えたろう。


 わたし自身は、死んだ後のことなんざ知ったこっちゃないから、著作権なんて、死後7日くらいで切れたって構やしない。
 初七日でね。日本の文化だし。ええ。


 子孫(いないけど)は、勝手にてめえの腕で食え。


 まあ、作品を販売する会社としては、在庫のハケるハケないがあるだろうから、死後7日はさすがに乱暴だが、死後5年とか7年で在庫の処理もつくだろう。


 今の技術とか、ポスト・モダンだかサンプリングだか知らんが、過去のものを合成・改変・編集して作品を作る時代の流れとか考えると、著作権なんて、作者の生存期間と多少の整理期間くらいでいいんじゃないか、と思う。
 そっちのほうが、数々のクズとともに、いろいろ面白いものができてきそうだし。


 ま、昔の市・座と、楽市楽座みたいなことなんじゃないか。違うかな。


 以上は作品の内側から見た話。


 外側のね、国際競争力とか、ネズミちゃんに代表されるキャラクター・ビジネスの話はまた別だ。それはわたしの手に負えるところではない。

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「今日の嘘八百」


嘘三百八十七 死後五十年からさらに二十年延ばすなんてセコいことはやめて、いっそ死後七百年くらいにしたらどうか。


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