ちょっと

 少し観察してみるとわかるが、日本語では言葉を弱めることが多い。おれも今、冒頭で「少し」と書いたけれども、「少しばかり」とか「やや」とか「もしかすると」などと言葉を弱めたり、ぼかしたりする使い方が多いのだ。「白髪三千丈」とか、「怒髪天を突く」とか、誇張する表現が多い中国語とは対照的である(といっても、おれは中国語の会話をできず、あくまで故事・慣用句についての知識しかないけれども)。

 この頃気になりだしたのだが、会話の中で「ちょっと」という表現をよく聞く。印象としては仕事の場で多い。「ちょっとこの紙に書きましたように、ちょっと5日までにちょっと仕上げる必要があります」などと、やたらと言葉にくっつく。えー、とか、あのー、のようなフィラー埋め草言葉。英語ならwellとかyou know)とも捉えられるが、ちょっと違う気もする(あ、ちょっとを入れてしまった)。

「ちょっと」と使う裏には、相手を恐れる心理があるとおれはニラんでいる。話しながら及び腰というか、逃げ腰なのだ。直接の摩擦を恐れるココロで、「ちょっと」を無意識のうちに挟み込んでしまうのだと思う。

 それにしても、「ちょっと」という言葉、以前はこんなに会話の中に入り込んでいただろうか。おれの注意がたまたま最近「ちょっと」に向かっただけでもともとよく使われる表現だったのか、それとも割にこの頃になって流行りだしたのか。

 これをお読みの方も、まわりの人の言葉遣い(あるいは自分の言葉遣い)を注意してみていただきたい。特に仕事の、多少肩の凝る場では「ちょっと」が多用されていることに気がつくと思う。

痒みの誕生

 おれはアトピー性皮膚炎で、子供の頃から現在までおおよそ半世紀にわたってカイカイカイカイと掻いてきた。おれの人生は痒みとの戦いであったといっても過言ではない(過言だが)。

 痒みという感覚は実に不思議で、最近の科学でもどういう仕組みで感じるのか、今イチ解明しきれていないらしい。

 そもそも、なぜ痒みなどという感覚が生物の長い歴史の中で続いているのだろうか。

 痛みはわかる。痛みは故障の信号であり、「そこはなんとかせんといかんですばい」と、別に福岡弁になる必要はないが、まあ、まずいことになっておる、今すぐなんとかしないといけない、という信号である。舐めるなり、体を休めるなり、絆創膏を貼るなり、腕の根元を縛るなりと痛みを、感じるたびに動物なり人間なりに手当てをしてきたわけだ(A.I.が本当にヤバい進化をするのは、自己複製と自動改変と痛みの感覚を備えたときだろう)。

 一方の痒みも、虫に刺されたとか、炎症(バイ菌の侵食)が起きているという故障の信号ではあるのだが、こっちのほうは実は手当てのしようがあんまりない。掻けば掻くほど事態が悪化するというのは、皮膚炎を患ったことのある人ならよくわかるだろう。まあ、人間ならキンカン塗ってまた塗ってなりなんなりとまだ手はあるが、人間以外の動物となると、本能に駆られてカイカイカイカイと掻いて、かえって悪化をまねくばかりである。場合によっては掻いた傷口からさらにバイ菌が入り込んで死に至ることだってあるわけで、そんなカイカイ遺伝子がなぜ進化のうえで残ってきたのか、不思議である。

 犬や猫が後ろ足でカイカイカイカイと掻きまくるのは、まあ、ノミなりシラミなりを取り払う効果があるかもしれない。よくわからないのは、ノミ、シラミ、あるいは蚊がわざわざ痒みを感じさせるような物質を犬や猫の血管に注入することで、自らの生存可能性を下げている。なぜそんな遺伝子が残っているのだろうか。痒み注入機能がないほうが血を吸うだけ吸ってまんまと逃げおおせるだろうに。

 進化というのは考え始めると不思議と好奇心のかたまりであある。そういえば、掻くと快感を覚えるという機能も、不思議な遺伝だ。

見たいものを見てしまうのココロ

 たまたまここ2回ほど、日本論や日本人論への疑惑のマナザシについて書いたけれども、特に理由はない。毎度ながらの行き当たりばったりだ。

 「折りたたみ北京 現代中国アンソロジー」を読み始めたら、編者のケン・リュウが序文でこんなことを書いていた。ちなみに、ケン・リュウは中国生まれ、アメリカ育ちのSF作家である。

 中国SFの話題が持ち上がるといつも、英語圏の読者は、「中国SFは、英語で書かれたSFとどう違うの?」と訊ねます。

 たいていの場合、その質問は曖昧ですね……それに気の利いた回答はありません、と答えて、わたしは質問者を失望させてしまいます。(中略)適切な回答を提供しようとすれば、まったく無価値な、あるいは既存の偏見を再確認するステレオタイプな見方である大雑把な一般化にしかなりません。

 あーそーだよなー、と思う。まあ、人は何かに出くわしたとき、それまでに持っていた知識や見方を手掛かりにして評価をしようとするから、偏見を偏見と気づかずに再確認できるとウレしくなるのかもしれない。

 ケン・リュウはさらに書く。

“中国SF”の特徴を自信たっぷりに断言する人間は、(a)話題にしているものについてなにも知らない部外者であるか、(b)なにかしかは知っているものの、対象物の議論の余地のある性質を意図的に無視し、自分の意見を事実として表明する人間であるかのどちらかであるとわたしが考えているということです。

 この中の“中国SF”というところを“日本人”(あるいは“日本文化”でもよい)と置き換えると、日本人論に対する強烈な皮肉になる。

“日本人”の特徴を自信たっぷりに断言する人間は、(a)話題にしているものについてなにも知らない部外者であるか、(b)なにかしかは知っているものの、対象物の議論の余地のある性質を意図的に無視し、自分の意見を事実として表明する人間であるかのどちらかであるとわたしが考えているということです。

 日本人論に限らない。ナントカ人論の類の多くが「なにも知らない部外者」のものであるか、「自分の意見を事実として表明する人間」によるものだと思う。

 結局、ワシらは物事から見たい部分だけを見てしまう、あるいは見たいようにだけみてしまうんじゃないかと思うのよね。残念ながら。

 

折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー (ハヤカワ文庫SF)

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  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2019/10/03
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日本人を特殊としたいココロ

 過敏性腸症候群について調べていて、こんなページに行き当たった。

 

toyokeizai.net

 中に、こんな文章がある。過敏性腸症候群についての記者会見での出来事だそうだ。

 

驚いたのは「緊張やストレスでお腹を壊す、眠れない。日本人は欧米人に比べて、この病気にかかりやすいのではないですか」といった質問が数多く出されたことだ。記者たちとしては、「日本人には、この病気は多い」という答えを引き出すための質問だった。

 

 この手の質問をする記者がいるのは何となくわかる。よきにつけ悪しきにつけ、日本人の特殊、特別なところを書きたいのだろう。おそらく、そういう文章を好む読者が多いのだろうと思う。

 記事の続き。

 

「いや、他の世界の諸国と同じ割合です」兵庫医科大学内科学講座(上部消化管科)の三輪洋人主任教授は、記者会見でそう答えたものである。「日本人の気質っぽい、と見られるかもしれないが、日本人の頻度は、世界と同じ。逆にいえば、世界中が悩んでいるのです」(三輪教授)

 

 おれは日本人論にはちょっと辟易としている。そんなに日本人、日本人と語らなくたっていいじゃないか、と思うのだ。

 まあ、だからといって、「日本人は自分を特殊、特別と思いたがる。」と結論してしまうと、それもまた変な日本人論もどきになってしまうけれども。

 

 

 

ニッポン・バンザイ論と不安感

 田中克彦の「ことばと国家」を読んでいたら、日本語への讃美についてのこんな一節があった。

一般に、自分のことばをことさらにほめる必要が生じるのは、どちらかといえば劣勢に立たされたり、あるいは強力な声援を送っててこ入れする必要のあるばあいである。だから人はいまさら、あらためて英語をほめる必要は感じない。

 その通りだと思う。少なくともおれは、英語を母語とする人たちが英語を素晴らしいと賛美する文章を読んだことがない。

 「自分のことば」というところを「自分の文化」と置き換えても、成り立つと思う。日本文化を素晴らしいと自画自賛する人は多いが、それについて、こんなふうに言い換えることができるだろう。

一般に、自分の文化をことさらにほめる必要が生じるのは、どちらかといえば劣勢に立たされたり、あるいは強力な声援を送っててこ入れする必要のあるばあいである。だから人はいまさら、あらためて英米の文化をほめる必要は感じない。

 自分の家柄を誇る人は、たいがい何らかの不遇に見舞われている人である。家柄がよいうえに順調に行っている人は、自分の家柄を自慢したいとはあまり思わないだろう。

 日本文化は素晴らしいと言い立てる記事や、あるいは外国人がこんなふうに日本文化を褒めていたと紹介する記事がよくある。おれはテレビをほとんど見ないが、その手の番組も結構多いようだ。無邪気といえば無邪気だが、その背景には常に、外からの脅威に圧倒されつつあるという不安感があるんじゃないかと思う。日本の文化を誇っているように見えて、実は己の不安感を晒しているわけで、言うなれば、負けてたまるかニッポン男児、のココロである。もしかしたら、それは黒船以来の呪縛かもしれない。

 あるいは、少々飛躍するが、中国や朝鮮をことさらに叩いて溜飲を下げる人々は、似たように、外からの脅威に圧倒されつつあるという不安感を抱いているんじゃないか。

 田中克彦の「ことばと国家」は1981年の本だが、かれこれ四十年間、状況は変わっていないように思うのだ。

ことばと国家 (岩波新書)

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物に生命を吹き込む

 誠に不思議なのだが、おれには、手にしたものが飛んでいってしまうことがある。昨日も、手にした歯ブラシが突然空中を舞い、歯磨き粉を撒き散らした。ドアを開けようとして鍵が跳ね飛んだ。自動販売機に入れようとした100円玉が手から落ち、自動販売機の下に転がり逃げた。

 20世紀前半のチェコの小説家カレル・チャペックがエッセイでこんなことを書いている。

その人たちは不器用者と呼ばれ、その人たちの手中にある物はにわかに生き返り、自分勝手でいささか悪魔的な気質を示すことさえできるかのようである。むしろ、その人たちは魔法使いで、ちょっと触るだけで生命のない物に無限の精気を吹き込むのだといえる。

 そうなのだ。おれたちは不器用というより、魔法使いなのだ。物に生命を吹き込む選ばれし者なのだ。

 世界中からこの魔法使い達を集めて、魔法合戦を行ったらどうなるだろうか。大したことを行う必要はない。一箇所に集まって、日常生活を行うだけでよい。靴紐が自らからまり、彫刻刀が己の指を刻み、コップが飲み物を入れたまま宙を飛ぶ。ドライバーの先からネジが逃げ出し、トマトソースが玉砕し、ハサミが手裏剣と化して人を襲う。

 ふと今、思った。創造主というのはもしかしたら不器用者だったのではないか。土くれをいじくっていたら、生命が吹き込まれて、勝手に動き出してしまったのだ。きっと自分でも驚いて、とっさに「人間」と名付けたのである。

リヴァプールのサッカーが楽しい

 ここのところ、プレミアリーグリヴァプールの試合を見ている。ジェラードが現役だった頃から気になるチームだったのだが、クロップ監督になってからチームの雰囲気がよく、強く、見ていてとても楽しい。

 何といっても、前線の3トップ、マネ、サラー、フィルミーノが素晴らしい。この3人がポジションチェンジも含めて動き回る。マネとサラーはスピードがあり、ディフェンダーの裏をとる動きが抜群に上手い。特にマネは爆発的に速く、手がつけられない。サラーはマネに比べると小技が上手い印象だ。マネが裏に抜け出すことをいつも狙っているのに対し、サラーはわざとか? というくらい、相手と競り合いながら走る。そして、倒れない。フィルミーノは一応、ワントップなのだが、テクニックやスペースを作って、マネやサラーを活かすプレイが多い。しかし、ディフェンスがマネとサラーに気を取られていると得点を狙うから、相手からすると始末が悪い。

 速くて上手い、裏へ抜けるというのは、おれのような素人にもわかりやすく、楽しい。グアルディオラ監督のマンチェスター・シティも強いが、おれには高度すぎる。

 速くてトリッキーな3トップを活かすのがサイドバックのアレクサンダー・アーノルドやロバートソン、あるいはオクスレイド・チェンバレンミッドフィルダー)のクロスやロングパスだ。異常なほど精度が高く、それをまたマネやサラーが足元でぴたっと止める。サイドバックなのに、相手のゴールライン近くでサイドバック同士がサイドチェンジすることもあって、相手ディフェンダーが振られまくる。凄すぎて、笑ってしまうことがある。

 おれが好きなのはミルナーだ。中盤の選手なのだが、戦況によってはサイドバックも務める。危機察知能力が高く、途中投入されて、ここぞという場面で相手を止めることが多い。クロップ監督もこういう選手をサブに持っているのは心強いだろう。顔も体もゴツく、軍曹といったイメージだ。おれがもし兵隊なら、ミルナーの下につきたいと思う。前線から生きて帰れそうだ。

 マネはセネガル、サラーはエジプトの出身だ。サラーは今ではイスラム圏全体のヒーローだとも聞く。彼らの活躍にアンフィールドリヴァプールの本拠)が湧くのを見ると、異文化出身同士の人と人を結びつけるのは言葉より行動だと感じる。