リヴァプールのサッカーが楽しい

 ここのところ、プレミアリーグリヴァプールの試合を見ている。ジェラードが現役だった頃から気になるチームだったのだが、クロップ監督になってからチームの雰囲気がよく、強く、見ていてとても楽しい。

 何といっても、前線の3トップ、マネ、サラー、フィルミーノが素晴らしい。この3人がポジションチェンジも含めて動き回る。マネとサラーはスピードがあり、ディフェンダーの裏をとる動きが抜群に上手い。特にマネは爆発的に速く、手がつけられない。サラーはマネに比べると小技が上手い印象だ。マネが裏に抜け出すことをいつも狙っているのに対し、サラーはわざとか? というくらい、相手と競り合いながら走る。そして、倒れない。フィルミーノは一応、ワントップなのだが、テクニックやスペースを作って、マネやサラーを活かすプレイが多い。しかし、ディフェンスがマネとサラーに気を取られていると得点を狙うから、相手からすると始末が悪い。

 速くて上手い、裏へ抜けるというのは、おれのような素人にもわかりやすく、楽しい。グアルディオラ監督のマンチェスター・シティも強いが、おれには高度すぎる。

 速くてトリッキーな3トップを活かすのがサイドバックのアレクサンダー・アーノルドやロバートソン、あるいはオクスレイド・チェンバレンミッドフィルダー)のクロスやロングパスだ。異常なほど精度が高く、それをまたマネやサラーが足元でぴたっと止める。サイドバックなのに、相手のゴールライン近くでサイドバック同士がサイドチェンジすることもあって、相手ディフェンダーが振られまくる。凄すぎて、笑ってしまうことがある。

 おれが好きなのはミルナーだ。中盤の選手なのだが、戦況によってはサイドバックも務める。危機察知能力が高く、途中投入されて、ここぞという場面で相手を止めることが多い。クロップ監督もこういう選手をサブに持っているのは心強いだろう。顔も体もゴツく、軍曹といったイメージだ。おれがもし兵隊なら、ミルナーの下につきたいと思う。前線から生きて帰れそうだ。

 マネはセネガル、サラーはエジプトの出身だ。サラーは今ではイスラム圏全体のヒーローだとも聞く。彼らの活躍にアンフィールドリヴァプールの本拠)が湧くのを見ると、異文化出身同士の人と人を結びつけるのは言葉より行動だと感じる。

戦前と今と空気

 この頃、満州事変や五・一五事件など、戦前の事件についての本をちょぼちょぼと読んでいる。

 おれはそっち方面についてシランケンシュタインだったので、ははあ、そういうことがあったのか、と初めて知ることが多い。

 プレイヤーが多く、日本が戦争に至る経緯は複雑である。しかし、複雑怪奇というわけではない。まあ、丁寧に整理していけば、理解はできそうだというふうには感じている。

 よく近頃のご時世について「戦前の空気に似てきた」と書いている文章をよく読む。全然違うと思う。今は戦前のような軍部はない。自衛隊はあるが、統帥権問題もなければ革新派将校もいない。戦前に比べれば、軍に対してはるかに政府の統制は守られている。検閲も戦前とは比べものにならない。

 そもそも、戦前の革新運動(国家社会主義やクーデター、テロ)が生まれる背景には、昭和農業恐慌があった。農村の壊滅的状況に対する憤りから革新派将校達が過激行動に走った部分は大きいようだ。

 現代の日本はもちろん経済は落ち込んでいるけれども、昭和農業恐慌と比べれば全然マシである。

 あえて言うなら、大衆のなんとなくの勢い、空気、意見とも言えないような意見によって施策が左右されがちなところは似ているかもしれない。しかし、それは今と戦前に限った話ではないだろう。「こんなことを言ったら、トラブルになるんじゃないか」という恐怖や不安、それによって生まれる空気(つまり、多数派につこうとする人々の意見や感じ方のこと)は似ているかもしれない。あー、ヤダヤダ。

 しかしまあ、大衆とは誰なのか。それはひとつにくくっていいものなのか。いつもながら、疑問である。

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私は大衆ですか? あなたはどうですか?

 

ゾーンに入る

超一流のスポーツ選手はごくまれに「ゾーンに入る」ことがあるという。野球のバッターなら、ボールが止まって見えたり、非常に大きく見えたりする。そいつをカチコーンと打つと、逆転の大ホームランになったりするわけだ。

集中力が極端に高まると、脳が普段とは違った物事の捉え方をするのだろうか。一度、体験してみたい気はするが、まあ、凡人には一生ないことだろう。

もっとも、凡人がゾーンに入るとロクなことはない。通勤途中の電車でゾーンに入ってしまい、電車が止まって見えて会社になかなか着かないとか、ウンコをして下を覗くと非常に大きく見えたりとか(申し訳ない)、書いている企画書の文字が止まって非常に大きく見えたりとか、不便なことこのうえない。

重いものを持ち上げようとして、腰にピキッ、と激痛が走った瞬間ゾーンに入ったりすると・・・最悪だ。凡人には凡人のそれなりの日常が幸せなのだ。たぶん。おそらく。知らんけど。

晴れ男・晴れ女

 自分は晴れ男だ、晴れ女だと言う人がいて、イベントなどで、天気予報では雨でも自分が行くと雨が降らないことが多いと信じている。

 天気を変えるほどの力が個人にあるとは思えないから、晴れ男・晴れ女というのは気の持ち方によるのだろう。おそらく楽天的なのだ。「おれ/わたしが来たから、晴れたのだ」というのは自分に都合よく物事を見ようとする姿勢だ。本当は雨が降ることだってあるだろうが、そのときはあんまり自分に結びつけず、晴れたときだけ自分に結びつけるのだろう。

 逆に雨男、雨女と言う人もいて、これは悲観的なのだろう。「おれ/わたしが来ると、たいてい雨が降る」とまあ、悪いほうに自分を持っていってしまう。精神衛生上はあまりよくないかもしれない。もっとも、こういうことを言うと、雨男、雨女の人は「おれ/わたしは精神衛生上よくないものの考え方をしてしまうのだ・・・」と落ち込んだりして、負のスパイラルに陥ってしまう。

 おれはどうかというと、晴れ男ではない。雨男でもなく、もちろん、雪男でもない。あえていうなら、嵐に呼ばれる男だ。思わず知らず、嵐のところに足を運んでしまうのである。超弩級の悲観論者だ。飛びます、飛びます。

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おれが移住したら、ゴビ砂漠だって緑化できるぜ。

Laika ac from UK [CC BY-SA 2.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0)]

 

さまざまな時間の捉え方2

 前回、直線的な時間の捉え方について書いた。

 キリスト教イスラム教、ユダヤ教など、終末論の宗教がベースにある社会では直線的な時間の捉え方が主になり、「進歩していく」という考え方はそうした直線的な時間の捉え方から来ているように思う。イノベーションという考え方もそうだし、マルクス主義もそうだ。今の日本も、直線的な時間の捉え方が支配的だと思う。まあ、思いつきで書いているのであって、実証する力も根気もおれにはないが。

 江戸時代以前の社会では、よく知らないが、循環的な時間の捉え方が結構強かったのではないか。春夏秋冬、四季の変化もあるし、農業が産業のかなりの部分を占めていたせいもある。今でも「季節はめぐる」みたいな言い回しにどこかロマンチックな印象を抱きがちなのは、そうした循環的な時間の捉え方が日本に残っているからだと思う。一方で、人生方面では「老いる」ということが大きなテーマで(まあ、それはどこの社会でも同じだろうが)、小野小町光源氏に限らず、どうやら老いる、老いる、哀しい、哀しいと日本のあちこちで泣いていたようではある。

 伝統的なインドはどうだろう。住んだこともなければ行ったことすらないが、漏れ聞くあれやこれやではどうも欧米、日本とも違いそうだ。生まれ変わりということが根強く信じられているらしく、図的に言えば、直線(一生)の端と端が別の直線と斜めにつながっているような感じだろうか。さてさて。

 伝統的な中国も興味深い。儒教のほうでは過去を理想とする考え方も強かったようだ。といって、別にみんながみんな後ろ向きに歩いていくイメージでもないだろうし、一方で進歩バンザイ、でもなかったようだ(保守的な考え方が強かったようではある)。共産党が政治を握ってからは、進歩バンザイ、が表に出るようになり、また、経済発展にしたがって直線的な時間の捉え方も納得されてきているのだろうが。

 他の国、たとえば、ニカラグアでは、カメルーンでは、ベラルーシでは、アフガニスタンでは、パプアニューギニアでは、どんな時間の捉え方があるのだろう。ちょっと興味はわく。

 繰り返しになるが、例によって思いつきで書いた。責任は一切とらぬ。

さまざまな時間の捉え方

 おれは、進化は素晴らしい、という考え方を昔から疑惑のマナザシで見ておって、あまりに無邪気に進歩バンザイ! 発展バンザイ!とするような意見を読むとブーイングしたくなる。

 あの進歩バンザイ! 発展バンザイ!という感じ方はいつ頃生まれたのだろうか。17、18世紀のヨーロッパ産業革命の頃か、技術開発によって企業競争の出し抜く出しぬかれるが激しくなった欧米の19世紀の頃か。

 ちょいちょいと歴史の本を読むと、産業革命以前のヨーロッパではあまり進歩バンザイ! 発展バンザイ!というふうではなかったようだし、その他の地域では20世紀までそうした風潮は支配的でなかったようだ。

 ここからはだいぶ乱暴な思いつきになるのだが、進歩バンザイ! 発展バンザイ!という感じ方はキリスト教(およびイスラム教、ユダヤ教)の直線的な時間の捉え方がベースになっているように思う。神がこの世を創造し、人間が右往作法して、最後には最後の審判の日が来る、という例のあれだ。

 もっとも、直線的な時間の捉え方があればすぐに進歩バンザイ! 発展バンザイ!になるかというと、そうではない。さっき書いたように、キリスト教が支配的だった昔おヨーロッパでも、あるいはイスラム圏でも進歩バンザイ! 発展バンザイ!的な様子が見られないからだ。あったとしても、モノそのものに対する「おお、こりゃ凄い」という直接的な感想くらいではないか。

 進歩バンザイ! 発展バンザイ!の背景にはおそらく科学技術の進歩と、国と国の戦争、あるいは企業間の競争があるのだろう。戦争のとき、あるいは企業間の凌ぎ合いのとき、科学技術による兵器や製品が決定打となれば、「おお、進歩バンザイ!」となっておかしくはない。

 まあ、しかし、それは長い人類の歴史の中でも割と最近の感じ方であるには違いない。

生き馬の目を抜く

 慣用句にはよく考えると凄まじい表現があって、「生き馬の目を抜く」という言葉もそうだ。人を出し抜いて利益を得るというような意味で、「生き馬の目を抜く世の中」「生き馬の目を抜くような業界」などというふうに使う。

 文字どおりにとらえると、何とも恐ろしい。何しろ、生き馬の目、を抜くのだ。

 

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Waugsberg [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)]

 

 確かに相当な早技には違いなく、まったくもって油断も隙もない。残酷非情な行為でもある。

 しかし・・・抜いた生き馬の目をいったい何に使おうというのだろうか???