地場の笑い、中央の笑い

YouTubeでいろいろと笑いについての動画を見ていて、これに行き当たった。大阪の昭和の笑いを担った笑福亭松鶴藤山寛美横山やすしについての番組である。

 

youtu.be

 顔ぶれを見ると、20年ほど前のものだろうか。

 大阪ならではの番組というふうに思う。取り上げられている笑福亭松鶴藤山寛美横山やすしは伝説的人物ではあるけれども、一方でそれを語る人々の口ぶりでは、まるで街角を曲がったところにその人がいてもおかしくないようでもある。

 同じような番組を今つくろうとすると、大阪ではできそうな気がする(取り上げる人物の大小は問わない)。東京では難しいだろう。東京の番組は街角を曲がったところの人を取り上げるにしても、いったん「中央」(全国ネット)の視野に広げざるを得ず、街角を曲がったところという感覚が電信柱一般になってしまうからだ。

 おそらく、1980年頃(漫才ブームの前)ならばまだ東京でも地場の「そこにいた人」の番組は作れたろうけれども、それ以後は中央の番組、あるいは全国ネットの番組になってしまい、こういう人の手触り、肌触りのある番組は、味がうすまって難しいだろうと思う。

 地場の笑いは大阪だけでなく、それぞれの地方でありえるけれども、東京の笑いは中央の笑いに同化してしまって、なかなか東京地場の笑いは作りにくい、とまあ、そんなふうに思うのだ。「〜じゃん」という言い方が東京と全国の両方で通用してしまって、地場で煮込むふうになりがたいように(もともとは横浜横須賀の言葉らしいけど)。

培養象牙

 培養肉なるものの研究が進んでいるそうで、肉の細胞を組織培養で増やすというものだ。今のところは価格が高くて実用とまではいかないそうだが、それでもこういうものは需要が見込める限りしつこく研究されるんだろう。

 それでふと思ったんだが、象牙の培養はどうか。ご案内の通り、象牙は工芸の素材や漢方薬として珍重される一方で、それを目当てとしたアフリカ象の密漁が横行している。高価なんなら、培養も元がとれるだろう。エッヘン。おれ、もしかして天才。

 しかしまあ、象牙がただシャーレの中で増えるというのも面白くない。どうせなら、あの牙の形ごとニョキニョキ生やしたい。象牙工場では象の牙が下から上へと大量に生えているのだ。

 同様に、サイの角というのも珍重と密漁の的になっているそうで、こいつも工場でニョキニョキ生やしたい。いっそ、サイの顔ごと生やしたい。どうせなら、象牙の隣に鼻も生やしたい。

 どうもこういうグロテスクな話は、自分でヒーと思いながらもヨロコんでしまう。グロ心とでもいうべきものが人間にはあって、それは実は象牙をヨロコぶ心と根っこは同じじゃないかと思うのだ。

 

Ivory carvers in Tokyo, by Herbert Ponting

鯉は馬鹿ではないか

 鯉というのは昔から目出度い魚とされていて、絵の題材としてよく描かれてきた。特に滝登りは知られた画題で、あれは上昇→出世、という連想のほか、鯉が龍の門をくぐると龍と化す、という言い伝えのせいでもあるらしい。

 また、錦鯉の色鮮やかさも、鯉が特別視される理由のひとつだろう。昔、田中角栄の屋敷には錦鯉の泳ぐ池があって、鯉に餌やりをする姿がしばしば写真になった。新潟の農家から総理大臣にまでのしあがった田中角栄のイメージと、錦鯉の鮮やかさ、鯉の出世のイメージが重なって、写真の題材として象徴的だったのだと思う。

 しかし、現実の鯉はなかなかグロテスクである。何といっても、顔が気味悪い。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d7/27016_Sant%27Alessio_con_Vialone_PV%2C_Italy_-_panoramio_%288%29.jpg

Fabio Poggi [CC BY 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by/3.0)]

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fd/%281%29Carp-1.jpg

Sardaka [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)]

 

 はっきり言って、これは馬鹿の顔である。馬鹿でなければ、魯鈍である。

 鯉は悪食でもあって、口に入るものは何でも食べる。食欲旺盛で、おれの知り合いが池のへりから餌を撒いたところ、もっとくれ、もっとくれ、と大量の鯉がのたくりながら地面にあがってきたそうだ。なかなか恐怖である。

 こんなやつが出世の象徴でいいのであろうか、とも思うのだが、もしかすると出世するやつはなりふりかまわぬ、という含意があるのかもしれず、そうであるならば、馬鹿でも魯鈍でも貪欲ならば出世の道は開かれているのかもしれない。

 

 

別れの象徴

 映画などで別れのシーンというと、昔から鉄道がよく使われる。港(船)や空港(飛行機)も多い。

 あれは鉄道や船、飛行機だからいいのであって、タクシーだとおそらく今いちである。

 なぜかというと、鉄道、船、飛行機は路線が決まっていて、変わらない、すなわち人生の航路が決まっていて、もう変えられない。そういうイメージが鉄道や飛行機に重なるわけだ。タクシーだと行き先を言いさえすればたいがいどこでも行けるから自由、すなわちこれからどうにでもできそうな印象になってしまう。

 そういう意味では、船であってもレジャーボートは別れの象徴としてダメである。バスはどうだろう。いけるかな。小市民的なところがかえって哀愁かもしれない。

 自転車は論外である。駕籠は問題外の外である。

おもてなしとシャワートイレ

 シモの話で恐縮だが、大をした後の尻の処理の仕方には世界に大きくふたつの流儀がある。紙で拭く派と水で洗う派だ。

 紙で拭く派はトイレットペーパーが主だが、昔の日本では落とし紙と呼ばれるものを使っていた。おれもほんの小さい頃には薄いちり紙状のものを使った記憶がある。いつの頃からか、ロール状のトイレットペーパーが入るようになった。もしおれの家基準で考えるなら、日本でトイレットペーパーが普及したのは半世紀かそこらということになる(うちは地方だったので、大都市ではもっと早かったかもしれない)。欧米、東アジアはもっぱら紙で拭く派である。

 一方の水で洗う派はインドが代表的で、トイレットペーパーもないことはないが、頼むといかにも「不潔だ」という顔をして渡されると聞いたことがある(おれは行ったことがない)。もっぱら水を使って左手で洗うという。アラブ方面も水で洗う派で(乾燥地帯なのにどういうことだろうか)、ホテルのトイレには尻を洗うためのシャワーがあるらしい。

 水で洗う派が紙で拭く派を不潔に感じるのは何となくわかる。紙で拭いたってきちんと取れないだろう、きったねー。ということなんだろう。

 日本は紙で拭く派だが、シャワートイレ(いわゆるウォシュレット。ただし、ウォシュレットはTOTOの商標)が普及して、水で洗う派に転換しつつある。おれも大学の頃から家ではシャワートイレを使うようになって、考えようによっては尻の処理についてはインド〜アラブ派になったといえる。

 シャワートイレというのは実に偉大であって、発明は確か日本ではないが、改良・普及させたのは日本である。ノズルが出てきて、ピンポイントに尻の要点を狙う、しかも返り討ちに合わないというのはなかなか微妙な設計とコントロールが必要で、実によくできている。日本は武士道を誇るよりシャワートイレを誇ったほうがいいんではないか。

 おれはシャワートイレで尻を洗うたびに、「おもてなしだ!」と叫んでしまう。嘘である。

 しかし、偉大なはずのシャワートイレがなぜか世界ではあまり普及していないらしい。中国では一種のステータスとして喜ばれているという話もあるが、尻のOMOTENASHIは今いち理解されないのであろうか。

 

https://www.nikkei.com/content/pic/20190517/96958A9F889DE6E6EBE7E7E4E4E2E3E5E2E7E0E2E3EB919CEAE2E2E2-DSXMZO4496922017052019000001-PN1-6.jpg

新国立便座競技場。シャワートイレ機構をつけたくなる。

緊張感とリラックス

「緊張感をもって臨んでいただきたい」

 という言い回しがあって、社長や大臣などのエラい人の訓示によく出てくる。

 こういう言葉が出てくる背景は何なのだろうか。

 まずは緊張感をもって臨むと、よい結果が得られるという考え方があるのだろう。一方で、わざわざこういう訓示が出てくるということは、“人は放っておくと、ダラけてしまうものだ”という認識があるとも考えられる。イメージとしては、北斎漫画である。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b3/Hokusai-MangaBathingPeople.jpg

北斎漫画の緊張感のない人々。

 

 おれは住んだことがないので本当のところはわからないのだが、アメリカ方面では割にリラックスということを大事にしているようである。「Relax and enjoy yourself.」などという言い回しがあり、ということは、日本とは逆で、リラックスして楽しむとよい結果が出、人間、放っておくと緊張してガチガチになってしまうものだ、という認識があるのかもしれない。

 試験の前なんかにもこの認識の違いが出る。これから試験に向かう学生に、日本なら「頑張って」と声をかけるのは普通だろう。あるアメリカ人の学生に「頑張って」(にあたる英語。忘れてしまった)と言われたらどう思うか訊ねると、「言われなくてもこれまで頑張ってきたよ! これだけさんざんやってきたのに、これ以上を求めるの!? とカチンと来る」という答えが返ってきた。自分なら「Good luck!」と声をかけるというのだ。これまで頑張ってきたろうから、あとはうまくいくように幸運を! というわけだ。

 まあ、日本語の「頑張って」は文字通りの意味ではなくて、「あなたのこと、気にかけてますよ」くらいの意図の場合も多いのだが、ともあれ、日米で物事に向かう姿勢というか気の持ちようの捉え方は違うようだ。そういえば、「テンションあがる!」というのが日本語ではいい意味だが、アメリカでは緊張感が高まるというのはあまりよい捉え方をされなさそうである。日本は緊張感を好ましく捉える傾向があるのかもしれない。

 いざというとき、緊張感より集中力のほうが大事だと思うのだけどね、おれは。

「ちょっと」

 ここのところ気になっているのだが、仕事方面というか、あらたまった場で「ちょっと」という言葉が多用されているように思う。「ちょっといいですか」、「ちょっと思ったのですが」「ちょっとそういうふうに、ちょっと言いたい」などと、いろんな言葉にくっつく。時には「ちょっと大変」、「ちょっと非常に心配」、「ちょっと緊急」などと、どっちなんだ! と言いたくなる使い方がされたりする。最近の傾向なのか、昔から多用されているのだがおれが気づかなかっただけなのかは、わからない。

「ちょっと」をつけたくなる心理は何なのだろうか。

 日本のコミュニケーションには、言葉を弱めたがる傾向がある。「少しおかしい」とか、「やや強め」とか、その手の丸める言葉をよく使う。「ちょっと」もその類かもしれない。「白髪三千丈(約10km)」「千万人といえども我行かん」「悪事千里を走る」といった誇張の多い中国的表現とは対照的である(もっとも、おれは中国語ができないので、中国の生なコミュニケーションの実態は知らないのだが)。

 あるいは、これも日本のコミュニケーションの特徴だが、相手に対する遠慮やおそれのようなものが反映しているのかもしれない。「ちょっと」と言葉をやわらげることによって、人間同士の生なぶつかりあいをやわらげようとするのだ。「ちょっと」という言葉が家庭内や友人同士の気楽な関係より、仕事の場でよく使われることからすると、そう考えることもできそうだ。

 もっとも、仕事の場、あらたまった場といっても場合によるのであって、たとえば、日露戦争日本海海戦で「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモチョット浪高シ」では士気が今いちあがらなかっただろうし、終戦詔勅が「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テチョット時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニチョット忠良ナル爾臣民ニ告ク」ではどこまで本気なのかと疑りたくなる。ましてや、「千万人といえども我ちょっと行かん」では、意志が強いんだか弱いんだか、わけがわからない。

 これをお読みの方は仕事など、やや硬い場で「ちょっと」という言葉遣いに気をつけてみるといい。多用されていることにおそらく驚くと思う。「東郷元帥」の画像検索結果

「勝って兜の緒をちょっと締めよ」