ライト・プレイス、ライト・タイム・・・

 宮崎市定著「中国史」を読んでいる。

中国史(上) (岩波文庫)

中国史(上) (岩波文庫)

 宮崎市定(みやざき・いちさだ)先生は、内藤湖南らの京都大学東洋史学を継承、発展させた大学者だそうだ。だそうだ、などと甚だ頼りない書き方をするのは伝聞情報だからで、教養がないとこういうときに哀しい。

 今、総論を読み、春秋と戦国を終え、ようやく秦の時代に入ってきたところだ。市定先生の文は平明なのだが、何せ内容が濃いので、ちびちび読んでいる。

 先生は1901年生まれだから、西暦の下二桁をとれば、先生がそのときいくつだったかがおおよそわかる。「中国史」は上が1977年、下が1978年の刊行だから、先生が七十代後半の著作だ。

 1970年代後半はまだソ連が表向き健在で、中国も毛沢東が亡くなって文化大革命がようやく終結する頃である。日本でもマルクス主義唯物史観階級闘争)がまだ幅を利かせていた。

 市定先生は終戦直後にまだ四十代半ばだった。その後、、ボウフラのように湧き出してきたマルクス主義的な歴史学と随分、戦わなければならなかったのだろう。こんなことを書いている。

 (・・・)私がいつも考えていることは、人間の頭の働きには大体二通りの方向があることである。ある人たちは言葉を重んじ、言葉と言葉との関係なら、どこまでもその論理の展開について行くことができる。この派の人は具体的な事実に出会うと、すぐそれを抽象化し、抽象しない限りは理解したことにならぬとする。(・・・)

 ここで我々が注意しなければならぬことは、事実を抽象して抽象語を造ると、その言葉は事実の裏付けなしでも、独り歩きし出す危険のあることである。(・・・)

 最も甚だしい例は戦時中の日本であった。日本の歴史事実を抽象して、あるいは抽象したと称して、無数の抽象名詞が造成された。皇道、神国、八紘一宇などの言葉が、本当の日本の歴史から離れて、独立に動き出したから大変だったのである。(・・・)私の個人的な考えでは、世の中にはずいぶん唯物論と名乗る観念論があって、それはどこの側からでも借用されそうな危険を内蔵しているような気がしてならない。

 確かに、いわゆる極右も左翼も観念論(としばしば情念)が先行するという点で近い。

 しからば、先生の頭の働きはというと:

 (・・・)それは具体的な事実ならば、そのまま頭の中に納まり、事実と事実との連絡、因果関係においてなら、相当複雑な、かつ長たらしいものであっても、すぐ理解することができるという頭である。しかし、それを抽象化されてしまうと、もう言葉と言葉の論理にはついて行けない。言葉には具体性がないからである。(・・・)世間ではどうやら、こういう作業は歴史学の中でもいちばん下等な仕事だと見る人が多いようである。(・・・)しかし私の考えではこのような生き方こそ、歴史家の本筋であり、歴史家でなければ出来ない仕事だと思って自ら安んじている。他人がなんと思おうとそれは私に関係したことではない。

 この一文、シビれた。

 戦後のマルクス主義者には随分と頭のいい人たちがいたろうし、ソ連や共産中国を建てた人たちも、多くが頭よく、理想に燃えた人たちだったろうと思う。しかし、その後の歴史を見る限り、概してよい結果を生まなかったようだ。観念論が先行しすぎたのだと思う。

  ライト・プレイス、ライト・タイム(in the right place at the right time)という言葉がある。ことを為すにはいい時、いい場所にいることが大切だという。しかし、それとともにライト・ウェイ(in the right way、正しいやり方)が大切なのだろう。

 最後に、市定先生のシビれる文章をもうひとつ。この頃の近視眼的な教育政策に対して、重要なポイントをついていると思う。

 ところで基礎的な学問ほど、由来直接の役には立たぬものなのである。また役に立つはずがないのだ。それは自然科学に比べればすぐ分る。解剖学者は大てい診察ができないし、解析幾何を専門とする数学者がそのまま測量ができるとは限らない。

 解剖学が進んでこそ臨床医学は進むし、解析幾何が進んでこそ測量も工学も進む。畑を耕さないで実学の実(み)ばかりを取ろうとしていると、すぐに土地は痩せてしまうだろう。

 宮崎市定著「中国史」の総論のうち、特に最初の「一 歴史とは何か」はシビれる。興味を持った方には一読をおすすめします。

法の下の冷酷

 おれは今上天皇と面識がなく、直接話をうかがったわけではないが(当たり前である)、天皇、あるいは皇族であることは随分と不自由な身の上であろうと思う。

 前にも書いたが、たとえば、天皇は自分名義のクレジットカードもつくれなければ、ECサイトで物を買うこともできない。もし買おうと思ったら、会員登録のときに「姓:天皇」「名:明仁」「First Name: Akihito」「Family Name: Emperor」などと書かねばならず、個人情報もビックリである。そもそも選挙権すらない。

 天皇の地位というのは憲法皇室典範で決められていて、ある意味、日本国民(なのかどうかも曖昧だが)の中でこれほど人権が制限されている方も珍しいのではないかと思う。そして、その不自由、不都合をおれも含めて多くの人が当然か、自分には関係のないことか、仕方のないこととして等閑視している。

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 その不自由、不都合は自分自身の身に置き換えて想像してみるとわかると思う。試しに、日本国憲法の条文の中の「天皇」を「あなた」と書き換えてみよう。

日本国憲法

 

第1章 あなた

  • 第1条 あなたは、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
  • 第2条 あなたの地位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
  • 第3条 あなたの国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
  • 第4条 あなたは、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
     あなたは、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。
  • 第5条 皇室典範の定めるところにより、摂政を置くときは、摂政は、あなたの名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。
  • 第6条 あなたは、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
     あなたは、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
  • 第7条 あなたは、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
     1 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
     2 国会を召集すること。
     3 衆議院を解散すること。
     4 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
     5 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
     6 大赦、特赦、減刑刑の執行の免除及び復権を認証すること。
     7 栄典を授与すること。
     8 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
     9 外国の大使及び公使を接受すること。
    10 儀式を行ふこと。
  • 第8条 あなたに財産を譲り渡し、又はあなたの家が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。

 おれなら、ヤダネ、ゴメンコームルヨ、とケツをまくりたくなるところだ。

 日本国憲法の別の条文を見てみよう。天皇および後続の立場から見てみれば、随分、皮肉である。

  • 第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
  • 第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
  • 第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
  • 第31条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

ケツをまくる

「ケツまくって逃げる」という言い回しがある。江戸時代の町人が、走るとき、着物を尻からげにしたところから来た表現なのだろう。

 洋装が普通になった現代では、なかなか実行しにくい格好である。

 男がケツをまくって逃げようとするとズボンをおろさねばならず、そのまま変態および警察方面に直行である。

「水着の女性がケツまくって逃げる」はどうか。大変に面白い光景であるには違いないが、これまた公序良俗の問題がある。

「寒空の下、帰宅途中の制服姿の女子高生たちがケツまくって逃げた」。壮観である。青春である。

 おれは、そこに夕日が差してほしいと願っている。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Yuuyake.JPEG/1024px-Yuuyake.JPEG

「夕焼け」 (c) Σ64

 

人間の構成

 おれは過敏性腸症候群アトピーを患っていて、どちらもなかなか思いにまかせぬものである。過敏性腸症候群は自律神経系統の、アトピーはもっぱら免疫系統の不調から来る。おれの一生は腹痛と痒みとの戦いであると言っても過言ではない。いわゆるQOLのかなり低い人生を送ってきた。
 そういう毎日を送っているからこそわかることというのもあって、人間は脳、特に大脳を中心にしていると思いがちだけれども決してそんなことはない。むしろ、大脳、中脳、小脳と、自律神経系統、そして免疫系の融合というか、連立関係、同盟関係が人間の正体ではないかと思うのだ。お互いに直接の連絡はなく、体の状況を通じての間接的な連携が中心である。
 あくまで同盟関係だから、しばしば対立に陥ることもあり、心身方面の不都合、ストレスというのはもっぱらそこからくるとおれは考えている。
 病弱ゆえにおれはそういう理解に達したのだが、まあ、そんなことわからなくてもいいから、下痢せず、痒くない人生のほうがよかったな。

大阪弁を翻訳する

 昔、ひさうちみちおの漫画に大阪弁を東京言葉に変えるというのがあって、大笑いした覚えがある。たとえば、映画の喧嘩のシーンでよく出てくる「お前ら、なんぼのモンじゃい!」を東京言葉に直すと「君たち、いくらのものなんだい?」になるんだそうだ。

 テレビの影響か、今は東京の日常会話でも大阪弁(もどき)がしばしば混じる。おれも「知らんわ」とか、「ちゃう(違う)」とか、意識せずに使っていることがある。大阪弁はもはや日本の第二言語、あるいは第二共通語と言っていいくらいだと思う。

 大阪弁を仮に無理やり訳したら(共通語や東京言葉に変えたら)どうなるか、というのが今日のお題だ。テキストは中場利一の「カオル ちゃーん!! ~ 岸和田少年 愚連隊 不死鳥篇〜」である(岸和田は大阪弁の中でも泉州弁という独特の「濃い」言語を使う土地である)。

 まずは原文。

「コラ、ダレが自衛隊やねん、年が足らんわい」

 しかし定は帰してはくれない。女にモテないから、女づれだとよけいに突っかかってくる。

「チャラチャラすんなボケ! 殺すど!」

「殺してみんかい」

 肩をつかんできたので振り向き様に裏拳で一発、顔面を殴ってやった。グッ……と定は鼻を両手で押さえ、下がった。

「定、ワレなめてたらアカンど。ワレひとりと、こんなヘーのプーみたいなガキ二人で、オレに勝てるとでも思てんかい」

 訳文。

「オイ、ダレが自衛隊だ、年が足らないだろ」

 しかし定は帰してはくれない。女にモテないから、女づれだとよけいに突っかかってくる。

「チャラチャラするな馬鹿野郎! 殺すぞ!」

「殺してみろよ」

 肩をつかんできたので振り向き様に裏拳で一発、顔面を殴ってやった。グッ……と定は鼻を両手で押さえ、下がった。

「定、お前なめんなよ。お前ひとりと、こんなオナラぶーみたいなガキ二人で、オレに勝てるとでも思ってんのか」

 東京言葉に変えただけで、見えてくる光景が全然違ってくる。

 いっそ、キザな東京言葉にしてみよう。

「おい、誰が自衛隊だい、年が足らないじゃん」

 しかし定は帰してはくれない。女にモテないから、女づれだとよけいに突っかかってくる。

「チャラチャラするなよばか! 殺すよ!」

「殺してみなよ」

 肩をつかんできたので振り向き様に裏拳で一発、顔面を殴ってあげた。グッ……と定は鼻を両手で押さえ、下がった。

「定、君はなめたらいけないね。君ひとりと、こんなおならの音色みたいなお子たち二人で、僕に勝てるとでも思ってるのかい」

 なぜか尻がナヨナヨな感じになった。

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 なお、「じゃん」は本来、横浜の言葉らしい。戦後のジャズブームかグループサウンズの頃に音楽関係者や不良を通じて、東京に輸入されたのかもしれない。

 東京の下町言葉(というか、東京落語言葉)だとどうなるだろう。

「おぅ、ダレが自衛隊でぃ、年が足らねェよぅ」

 しかし定は帰してはくれない。女にモテないから、女づれだとよけいに突っかかってくる。

「チャラチャラすんじゃねェ馬鹿野郎! 殺すぞ!」

「おぅ、殺してみねェ」

 肩をつかんできたので振り向き様に裏拳で一発、顔面を殴ってやった。グッ……と定は鼻を両手で押さえ、下がった。

「定、テメェなめたらいけねェよ。テメェしとりと、こんなおならブーみてェなガキ二人で、オレに勝てっとでも思ってんのけェ」

 しかしまあ、同じ日本語の中でもこれだけニュアンスが違うのだ。外国の小説を翻訳で読むとき、あるいは映画で字幕を見るとき、わしらはどのくらい、ニュアンスを理解できているのだろうか。

岸和田少年愚連隊 不死鳥篇 カオルちゃーん!!

岸和田少年愚連隊 不死鳥篇 カオルちゃーん!!

相撲マフィア

 大相撲で感心するのは、数年ごとに大騒ぎを起こしては沈静化し、忘れた頃にまた大騒ぎを起こすことだ。

 日馬富士貴ノ岩への暴行事件に端を発し、貴乃花日本相撲協会を退職するまでの流れはある意味、見事だった。あれよあれよ、という間に思いがけぬ方向へと事態が動きながら、日本の相撲のいろいろな側面をざっくりした斬り傷のように見せてくれた。

 中でも圧巻は、日本相撲協会が突如繰り出した「親方は五つの一門のいずれかに所属しなければならない」という規定だ。その結果、貴乃花親方は否が応でも日本相撲協会を退職せざるを得なくなった。

 英語で「一門」を何と呼ぶかというと、family、ファミリーだそうだ。もうひとつ、clan、クランという言い方もあるが、これは一般には馴染みのない言葉だろう。

 日本相撲協会の規定を英語に読み替えると、「ボスは五つのファミリーのいずれかに所属しなければならない」。まるでゴッドファーザーの世界である。

 コッポラ監督の70年代の映画「ゴッドファーザー」にはいくつも印象的なシーンがあったが、そのひとつはニューヨークの・フィアの五大ファミリーが一堂に会する会議だった。

http://livedoor.blogimg.jp/evertonian/imgs/9/0/90971994-s.jpg

 映画「ゴッドファーザー」の公開当時(1972年)、アメリカの一般市民はこのようなマフィアの存在を信じられなかったとも聞く。大相撲の「一門」なるものも、貴乃花親方の退職騒動が起きるまで日本の一般市民がほとんど知らないものだった。

  大相撲の五代ファミリーとは:

・ニショノセキ・ファミリー

・デワノウミ・ファミリー

トキツカゼ・ファミリー

タカサゴ・ファミリー

・イセガハマ・ファミリー

 互選による束ね役(現代風に理事長と呼ばれる)には八角ボス(あだ名はオクタゴン)が選ばれた。

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果たしてうまく五大ファミリーを束ねられるか。八角親方 a.k.a. オクタゴン

 

https://www.sanspo.com/sports/images/20180330/sum18033005030004-p10.jpg

大相撲の五大ファミリー会議、通称「理事会」。

 

 Wikipediaで大相撲の「一門」の項を見ると、こんなことが書いてある。

公益財団法人に改組された現在でも日本相撲協会の人事、とりわけ理事の選出は一門の枠組みで決定されている。

(中略)

協会からは毎年、各一門へ助成金が支給され、さらに一門の責任者が所属する各部屋に分配している。

一門 (相撲) - Wikipedia

 暴力団の「一家」の仕組みを思わせる(もっとも、相手を張ったり、突いたり、投げたり、はたいたり、と大相撲は文字通り暴力の団ではある)。大相撲は擬似的な大家族制度だから、ヤクザの組織や問題解決方法に似たところがあるのだろう。「親方」も「親分」もファミリーの「親」である。

  日本相撲協会については、あんな問題ばかり起こす団体を公益財団法人にしておいていいのか、という議論もあると聞く。まあ、前近代の仕組みを現代の法律システムに当てはめようとするから、どうしたって無理が出る。よくも悪くも、お相撲さんの世界は現代のファンタジーだ。

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かつての大ボス、北の湖親方

人間相対性理論

 人の悪口を言うのは楽しい。古今亭志ん朝も「人の悪口を言いながら酒を飲むほど楽しいことはありませんナ」と言っている。

 しかしーーこれをお読みの方の周囲にもいると思うのだがーーやたらと悪口を言う人もいて、げんなりすることがある。手当たり次第というか、当たるを幸いに悪く言う。曰く、「稲本は偉そうなこと言っても、自分では行動しない」「何様のつもりか」「口だけだ」「口が臭い」「腹が出てきた」「自分の行動をコントロールできないのだ」「頭が悪い」「屁をこく」「それがまた臭い」,etc.。

 理由は人それぞれにあるのだろうが、ひとつには、人を引きずり下ろしたり、蹴落としたりすると、相対的に自分の位置が高くなった心持ちになれる、ということがあるのだと思う。悪口言われた人はもちろん悪口言われているなど、気づかない。相手の知らないところで悪口言って、己の立場を相対的に高める(心持ちになる)のだから、なかなかの卑怯者である。これをイナモトの特殊人間相対性理論と名付けよう。

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 引きずろ下ろし・蹴落としの中には、有名な人、成功した人が失敗するとしめしめとばかりにバッシングするという行為もある。他人の不倫話や離婚話をしかめ面ながら実はヨロコんで語るのも(ネットや週刊誌はイナモトの特殊人間相対性理論の統計的な証明である)、そういう心理の表れなのだろう。

 さらに視点を引いて見てみると、人間集団の間にも同じようなことがある。一般に日本では欧米崇拝というのがまだまだあって、たとえば、広告や雑誌の表紙に英語をすらっと入れただけでカッコよく感じてしまう。「海外」というと、もっぱら欧米のこと(だけ)だったりする。負けてたまるかニッポン男児。そういう態度をとってしまう自分たちが悔しいのか、欧米のあれこれを悪く言う人もいて、「あいつらには侘び寂びや風流というものがわからない」的な乱暴な話が飛び出す。引きずろ下ろしの典型的な例である。ミネストローネスープと味噌汁のどっちが美味いか議論したってしょうがないと思うのだが。

 一方で、特に中国・韓国に対する悪口雑言が聞くに堪えぬこともある。ヘイトスピーチというのは、多分に相手の集団を蹴落とすことで己達を相対的に高く感じるための手段ではないか。いわゆるネトウヨと言われる人たちの行為には、ある人間集団をひとくくりにして、引きずり下ろし/蹴落とし、己達を相対的に高い位置に置いたような心持ちになりたい、というものが多いように思う。

 これをイナモトの一般人間相対性理論と名付けたい。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/14/Albert_Einstein_1947.jpg/393px-Albert_Einstein_1947.jpg?uselang=ja

 アインシュタイン先生、すみません。