デブを神経科学から考える

 デブ化について続けて書く。なお、このシリーズは四部構成で考えていて、その第三回にあたる。

 おれのデブ化が進んで、はた目にもそれとわかるほど腹がせり出してくると(まるで道ならぬ恋をした姫である)、人がいろいろとアドバイスをくれる。その中に「食べるときはよく噛みなさい」というものがあった。

 その人いわく、食べ物をよく噛むと脳神経方面の満腹中枢というところが刺激され、ある程度食べれば満足するようになるのだそうだ。逆にいうと、あまり噛まずに食べると満腹中枢がなかなか刺激されず、まだ足りない、まだ足りない、と余計に食べてしまう。すなわち、デブ化の道に入り込んでしまう、とそういうことらしい。

 おれは早食いで、食事はたいがい5分か10分くらいで済ましてしまう。お餅は飲み物と思っている。人と食事すると、こっちだけさっさと食べ終わってしまって、手持ち無沙汰になることが往々にしてある。前からよくない癖だなーと思っていたが、なんとなくやり過ごしてきた。

 アドバイスにしたがって、「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。一、二、三、四・・・八、九、十。一、二、三、四・・・八、九、十」と三十回噛んでみることにした。五歳児のしつけみたいなことを五十歳過ぎてやるとは、と、いささか情けない心持ちになりながら、ふと閃いた。満腹中枢。鍵はここにあるのではないか。

 デブ化するのはつい食べ過ぎてしまうせいだ。では、満腹中枢をうまく刺激して、すぐに満腹感を覚えれば、食べ過ぎることもないはずだ。どこにあるのか知らないが、そこに鍼を刺すなり灸をすえるなりすればいいではないか。・・・とまあ、考えたわけだが、そんな便利なツボがもし存在するなら、一面飢餓の歴史でもある中国四千年が放っておくはずがない。「腹が減ったときはココに鍼刺すといいアルヨ」というティップスが華僑を通じて世界に広まって、デブと米よこせ的デモはこの世から半減しているはずである。

 インターネットで調べてみると、満腹中枢なるものは脳の視床下部にあるらしい。

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視床下部。Generated by Life Science Databases(LSDB).

 鍼も灸も指圧も無理である。

 こうなったら、おクスリに頼るしかない。脳の視床下部内の満腹中枢に選択的に働く薬さえできれば、人はいつでも満腹。ダイエットはもういらない。ダイエット業界の需要丸ごと飲み込んで、めちゃくちゃ儲かりますよ。ファイザーさん、武田薬品工業さん、開発してみませんか?

 とまあ、考えたのだが、これでは:

おれは肥満である → 食べ過ぎるからだ → おれは悪くない。おれのデカい胃が悪いのだ

 と、胃を小さくする手術を受けたマラドーナと発想が大して変わらない。

 無念である。

 

デブの美的価値を考える

 おれがデブ化しつつあるということからの考察。前回からの続き。今回はデブを美的側面から捉えてみたいと思う。

 現代ではデブがネガティブに捉えられることが多い。「デブのくせに」という陰口には有無を言わさぬ、言い換えれば論理と倫理を超えたパワーがあり、そのパワーの根源がどこにあるのか、興味深い。

 歴史を翻ってみれば、デブがいつの世も否定されていたわけではない。本邦のたとえば源氏物語絵巻を見てみれば、絶世の美男とされる光源氏は顔が下ぶくれのデブであり、情をもつれあわせる女性たちの顔の輪郭もおたふく顔に近い。彼女たちの肉体は十二単に隠れてわからぬが、顔から想像するにおそらく小デブであろう。

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土佐光起『源氏物語画帖』若紫。小デブの光源氏が後の紫の上を覗いている。

 

 中国ではかつて、男がデブであること(限度はあるだろうが)は富を象徴したと聞いたことがある。また、絶世の美女、楊貴妃は、白居易の「長恨歌」で「春寒賜浴華清池、温泉水滑洗凝脂」と歌われたようにおそらく脂分の多いデブであったろうと想像される。

 言葉方面では「恰幅(かっぷく)の良い」という言い回しが残っており、これはデブをプラスに捉えた表現だ。恰幅の良い紳士。いいじゃないですか。

 しかるになぜ現代社会でデブが排撃されるようになったかというと、医療方面およびダイエット業界方面の事情や戦略もあるのだろうが、一番はデブが、「欲望にだらしない」ことの象徴だからであろう。

 風の噂に聞いたのだが、この世には資本主義の精神なるものがあるらしい。儲けをワッと使ってしまわずに、欲望を節制して次の儲けの原資に使う、而して富の拡大再生産を目指すというココロだそうだ。

 この資本主義の精神の人から見ると、「欲望にだらしない」ことは原資を減らすことにつながりかねず、すなわち反資本主義的精神の表れなのである。だから、資本主義の真っ只中にある現代社会(特に先進国)においては、欲望を節制し、一定の苦役(フィットネス、ダイエット)に耐えることが、スマート(賢いという意味もあり、スタイルがよいという意味もあり、洗練されているという意味もある)で格好良いと思われるのだろう。

 だから、デブは反資本主義的であり、現代の支配的な精神に反しており、すなわちみっともないとされるのだ。

 デブよ、勇気を持て。おれ達は無意識のうちに資本主義のうさんくささに抵抗しているのだ。おれ達のカラシニコフ銃はカウチとポテトチップス。ちなみにおれはKOIKEYA PRIDE POTATO 本格うす塩味が好きです。

デブと代謝

 おれはこの春くらいからどんどんデブになっていて、半径10メートル以内ではなかなかの話題である。

 なぜデブになるかというと、割と単純な理屈で:

 摂取エネルギー − 消費エネルギー = デブ化エネルギー

 ということである。摂取エネルギーが多くて消費エネルギーが少ないと、デブになるのだ。

 摂取エネルギーについて言うと、以前からそう変わらないんじゃないかと思う。酒を飲むとやたらと物を食ってしまう悪い癖があるが、昔からそうで、今に始まったことではない。

 消費エネルギーについて言うと、運動量はそう変わらないだろう。問題は代謝のほうだ。代謝とは、簡単に言うと、細胞のひとつひとつがエネルギーをどのくらい消費するかで、おれも五十を過ぎて、最近、おそらく滅法落ちている。年をとれば代謝の作用が落ちるのは自然の法則であって、四門出遊の際にお釈迦様が悟った人生の摂理である。ウソである。

 代謝が落ちるというと「ダメになっている」という見方になりがちだが、おれはちょっとばかり疑問を持っている。

 代謝が落ちるというのはむしろ無駄を省いているということではないか? 現におれは生きているのであり、若い者のように無駄に食ってエネルギーを放出しているわけではない。むしろエネルギー効率がよくなっていると言えまいか?? EUのエネルギー政策に近いことをおれは個人で実行しているのではないか??? とまあ、そのように思うわけである。

 であるからして、おれがデブになりつつあるのはエネルギーを個人的に蓄積する技術を身につけ、実践しつつあるのである。・・・と主張したいのだが、「だったら、摂取エネルギーを減らせ」、というご意見にはムムムというほかなく、おそらくデブには正義がない。残念である。

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おそらく摂取エネルギーの少ない人。

アンドロイドは電気太夫の義太夫を聴くか

「人間とは何か?」というのは古来関心を集めてきた問題であるらしい。「あるらしい」と書いたのは、おれが馬鹿なうえにあんまり知識がないからだ。

 馬鹿なりに面白いなあ、と思うことがある。たいがい、人間論というのはその時代の科学技術の傾向に影響を受けるようだ。たとえば、産業革命で物理的な機械が発達した時代には解剖学的な人間理解が行われた。DNAという一種のコードが解明されていった時代(今もまだそのフェーズだが)にはメタなんちゃらとか、情報論やプログラムとしての人間理解が進められた。このところはA.I.とネットワーク化が関心を集めているから、おそらくパターンを組み合わせるプレイヤーとそのつながり方の相互作用という視野で人間を論じることになるのだろう。たぶん。おそらく。知らんけど。

 人間は自分のことを理解しようとするとき、外に存在する別のモデルをヒントにするのだと思う。そのモデルが急速に発展しているときには、「おおお。そういうふうになっておるのか!」という刺激が強くなるから、それを人間論に活かしたくなるんじゃないか。

 あんまり哲学・思想方面に強くないのでアレなんだが、人間を合理的に理解しようとするだけではちょっと足らんのではないか、と、おれは例のやぶにらみの霊感で思う。人間には歌舞音曲で喜び、悲しみ、楽しむココロというのがあって、これはあんまり他の動物にはない。そこんところを人間理解につなげるとまた面白いと思うんだが、いかんせん、歌舞音曲方面の科学技術というのはエジソンのレコードとシンセサイザーシーケンサー、およびその発展形くらいしかできてないから、外にあるモデル(ヒント)が足りないのだろう。

 A.I.がどういう形でどこまで進むのか、おれなんぞにはわからないが、ちょっと期待は持てる。義太夫を語れるA.I.が登場したら「人間とは何か?」にも新しい見方が出そうだが、しばらくは難しいかな。

あなたにとって何ですか?

 テレビのドキュメンタリー番組や雑誌のインタビューなどでしばしば見かける質問に「あなたにとって◯◯とは何ですか?」というものがある。

 これがおれには昔から解せない。質問するほうも質問するほうだが、答えるほうもよく答えられるものだと思う。

 たとえば、おれが「あなたにとってお金とは何ですか?」と問われたら、え?、とおそらく一瞬凍るだろう。今まで一度も考えたことがないから。「あなたにとって仕事とは何ですか?」というのも困りそうだ。「生活の手段です」と答えれば、当たらずとも遠からずだろうが、さて、そう簡単に割り切れるものでもなさそうである。

 かといって、国語辞典を引くように、

「あなたにとって結婚とは何ですか?」

[名](スル)夫婦になること。「お見合いで結婚する」「結婚式」「結婚生活」→婚姻(こんいん)」

 では、いささか紋切り型にすぎるし、

「あなたにとって恋愛とは何ですか?」

「恋したり愛したりすることです」

 では、お互いに困ってしまうだろう。

 質問する側としてはていよく番組なり、インタビューなりを追われる手段なのだろうが、さてもさても、そう簡単に問いたり、答えたりしていいもんだろうか。

 たとえば、

「あなたにとってサイン・コサインとは何ですか?」

「あなたにとって源氏物語とは何ですか?」

「あなたにとって小林製薬とは何ですか?」

「あなたにとって太陽系とは何ですか?」

「あなたにとって王安石の新法とは何ですか?」

「あなたにとってお通夜とは何ですか?」

 いずれも答に窮しそうである。

 あなたにとって今このときって何ですか?

デジタル・ネイティブの衝撃

 五歳になるおれの甥は(おれが五歳という意味ではない)二、三歳の頃から親のスマホやお姉ちゃんたち(十歳ほど違う)のタブレットをおもちゃにして成長してきた。子供の頃からデジタル環境が整っている人々、いわゆるデジタル・ネイティブである。

 iPhoneにSiriという音声認識&発話システムがある。マイクに話しかけると用を足したり、返答したりしてくれる。甥はSiriの使い方を覚えてからボキャブラリーが爆発的に増え、母親(おれの妹)が何かで叱ると、「何をおっしゃっているのか、わかりません」と微妙な機械音口調で返すのだそうだ。また、妹が甥とSiriの会話を聞くともなしに聞いていると、甥が何を言ったのか、Siriに「親しき仲にも礼儀ありですよ」とたしなめられたこともあったという。

 こういう話をすると、「おれたちが子どもの頃は野っ原を走り回って、バッタの足を引きちぎったり、カエルの尻にストローを突っ込み、息を吹き込んで爆発させたものだが・・・」などと将来を憂う人が出てくる。しかし、おれはあんまり心配はしていない。人の本性、喜怒哀楽はそう変わるものではあるまい、と楽観視している。

 なお、甥にデジタル機器ではなく、紙の雑誌を渡すと、写真をどんなにスワイプしても切り替わらないので「あれ? あれ?」と不思議がるそうだ。

歴史をストーリーで語ること

 今を去ること三十年も前になるが、おれは大学時代、文化人類学というコースに所属していた。文化人類学の大きなテーマのひとつに神話があり、おれは自分でコースを選択しておきながら、「なんでこんな浮世離れしたことを研究するのかなー」などと鼻くそをほじっていた。

 今になってみると、ああいう神話研究は現代社会にもいろいろ示唆を与えるものだったんだろうなー、と思う。ただ、鼻くそをほじっていたため、どういうふうに示唆を与えるのかまでは話せない。遺憾なことである。

 ちょっと話がずれるが、歴史はしばしばストーリーとして語られる。たとえば、「戦国時代に織田信長という英傑が現れた。合理主義に基づいて数々のイノベーティブな施策・戦術を編み出し、日本の覇権をほとんど手にしていたが、明智光秀という保守的な文人武将に謀反を起こされ、本能寺の炎の中に倒れた」とか、「19世紀半ば、欧米の帝国主義が日本にまで達した。組織的に金属疲労を起こしていた幕府はこれにうまく対応できなかった。危機意識を持つ下級武士の運動によって西日本の雄藩が立ち上がり、幕府を駆逐して、明治日本が生まれた」とか、なんとかかんとか。

 ストーリーというのは大変に便利なもので、まず面白い。そして、おそらく神話伝説がそうであるように、ディテールの中にさまざまな価値観を封じ込めることができる(たとえば、現代に流布している坂本龍馬の伝説には「若さと夢と行動は素晴らしい」という価値観が封じ込まれている)。そして、物事をある種の実感をもって理解させる。

 一方で、ストーリーは比較的シンプルな内容しか語れない。話の焦点もごく一部に当てられるだけである。焦点の当てられなかった部分は、本当は重要であっても、語られない=なかったも同然、となってしまう。そして、最大の問題は、ストーリーが面白ければ面白いほど広まってしまい、さまざまなバリエーションを生みながら史実とは無関係な方向へ、より「面白い」方向へ、と変化していくことだ。

 NHK大河ドラマが典型で、あれは史実という観点からすると、ほとんど無関係というか、でたらめである。しかし、多くの人が史実とストーリーをごっちゃにしたまま、より面白いもの、新しいバリエーションを求めるものだから、どんどんどんどん話が拡大再生産、というか、拡大変形生産されていってしまう(たとえば、忠臣蔵のさまざまなバリエーションを比べてみればよい)。そして、いつのまにか、既定の事実のように思われてしまう。

 おれは歴史のストーリー化はこれからいっそう害をなすんじゃないかと危惧している。国際的に人がどんどん行き来し、入り混じっていくなかで、社会それぞれで育ってきたストーリーがぶつかり合い、摩擦を起こしそうだ。お互いに出処と価値観が別々のストーリーをぶつけたって、なかなかほどよいストーリーはできあがらないだろう(なぜならあまり面白いものにならないから)。また、いろんなルーツを持つ人はどのストーリーを信じればよいのだろうか。

 ストーリーはストーリー、史実は史実(講談は講談、事実は事実)と切り分けられればいいのだが、実際にはストーリーが史実を動かしてしまうところもあるから、むつかしい。