デュシャンは語る

デュシャンは語る (ちくま学芸文庫)

デュシャンは語る (ちくま学芸文庫)

 何気なく買った本だったが、当たりであった。楽しい読書体験だった。

 マルセル・デュシャンが79歳のときのインタビュー。デュシャンは20世紀前半のダダの代表的作家として知られている。近現代美術史の本にはほぼ間違いなく「泉」(小便器を美術展に出展した作品)が載っている。

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「大ガラス」も有名だ。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/b/be/Duchamp_LargeGlass.jpg

 1930年代以降デュシャンはほとんど表舞台から姿を消した。このインタビューの頃はほとんど埋もれた存在だったらしい。

 読んでいて、ゆっくりと心動かされた。なぜかははっきりと捉えられない。大げさな言い方をすると、ある種の精神的態度に、ということかもしれない。極めて聡明で、知性的で、ウィットに富む人物で、しかし、その精神は単に合理的とも、経験主義的とも、審美的とも、(そんな言葉あるのかわからないが)感性的とも整理できない。あえて言うなら、己の好奇心と思考に対して誠実な態度におれは感銘を受けたようだ。

 デュシャンは画家としてキャリアをスタートしたが、ある時期から絵を捨ててしまった。

網膜があまりに 大きな重要性を与えられているからです。クールベ以来、絵画は網膜に向けられたものだと信じられてきました。誰もがそこで間違っていたのです。網膜のスリルなんて! 以前は、絵画はもっと別の機能を持っていました。それは宗教的でも、哲学的でも、道徳的でもありえたのです。私に反網膜的な態度をとるチャンスがあったとしても、それはたいした変化はもたらしませんでした。今世紀全体がまったく網膜的なものとなってしまっているのです。

 現在ではデュシャン現代アートの祖のように捉えられている。現代アートデュシャンの流れを汲んでいるのか、それとも現代アートのほうでデュシャンを再発見したのか、おれは知らない。

 先にも書いたように、このインタビューの頃、デュシャンはほとんど埋もれていて、著者のピエール・カバンヌによれば「デュシャンに関する研究書はほんのわずかしかない」状況だった(インタビューは1966年)。それが今では二十世紀のアート史上最も重要な存在のひとつとされている。デュシャンの次の言葉は印象的であり、皮肉でもある。

私は絵画は死ぬものだと思っています。おわかりでしょう。タブローは四十年か五十年もすると、その新鮮さを失って死んでしまいます。彫刻だって同じでしょう。これは私のちょっとした十八番で、誰も認めてくれないのですが、そんなことはかまいません。私は、タブローはそれをつくった人間と同様、何年かたてば死ぬのだと考えています。それから、それは美術史と呼ばれるようになるのです。今日の真っ黒になってしまったモネと、六十年から八十年も前の、輝きを放っていた、つくられたばかりのモネとでは、たいへんな違いがあります。現在では、それは歴史の中にはいってしまい、そのようなものとして受けとられています。

 

 

ことわざの生命

「秋茄子は嫁に食わすな」ということわざがあって、なかなかに奇妙である。

 ことわざというのは一般に、世の中の仕組みや機微、あるいは人情の妙などを短い、しばしば奇抜なフレーズで納得させる。意味と表現のからみあいが卓抜なことわざは人口に膾炙し、後へと残る。つまらないことわざや、時代・世情と合わなくなったことわざは消えていく。ことわざの生命とはそうしたものだと思う。

 しかるに「秋茄子は嫁に食わすな」がいまだに残っているのは謎である。意味には3通りの説があるらしい。

a. 秋茄子は美味いから嫁に食わすにはもったいない。

b. 秋茄子は身体を冷やすから大切な嫁には食べさせてはいけない。

c. 秋茄子は種が少ないから食べると子種に恵まれないかもしれぬ(から、嫁に食べさせてはいけない)

 aはずばり姑の意地悪である。bはその逆で姑が嫁を大切にしていることを表しているが、どうもこれは姑側からの反論じみている。aだとまるで自分たちが悪者みたいなので、bの理由付けが出てきたのではないか。cはまあ、縁起担ぎ、あるいは類似の連想みたいなもので、わからんでもない。カズノコの反対であろう。

 不思議なのは、今の世の中でもまだ「秋茄子は嫁に食わすな」が生き残っていることだ。このさまざまな食べ物が手に入る世の中にあって、秋茄子はそんなに話題にするほどのものだろうか。意味aならば「千疋屋のメロンは嫁に食わすな」でもいいし、意味bならば「ビールは大ジョッキで嫁に飲ますな」でもいい。

 思うに「秋茄子は嫁に食わすな」は、「このことわざはいったい何を言いたいのか?」を議論するためだけに現代に生き残っているのではないか。「この作品はいったい何を言いたいのか?」と問いかけてくる現代アートのようなものであり、そういう意味では前衛的な姿勢のことわざだと思うのである。

大会テーマソング

 今回のサッカー・ワールドカップは試合が深夜におよぶので、平日はなかなか見れなかった。それでも試合には面白いものが結構あった。

 一方、相変わらず謎なのがテレビ放送の「大会テーマソング」というやつで、安いJポップが付いてくる。番組制作側の安いセンス丸出しで、ヤメテクレヨ、と思う。「大会を盛り上げるため」ということなのかもしれないが、テーマソングや変な演出がなくたって、試合自体が盛り上がるんだから、別に要らんだろう。

 番組制作上オープニングやエンディングにどうしても要るというなら、ありきたりのJポップなんかやめて、大会開催国にちなんだ曲を使えばいいんじゃないか。たとえば、今回のロシアならこれなんてどうだろう。

youtu.be 深刻すぎるか。これじゃあ、勝ち負けが命に関わる。

 ふと思ったんだが、NHK大相撲中継にも「今場所テーマソング」としてJポップをつけてみたらどうだろう。♪夢のかけ橋へ〜、かなんか。

相撲源氏

 理由は知らないが、大相撲の部屋には井筒、尾車、片男波高砂など、雅な名前が多い。その部屋の師匠の顔は:

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 だったりするのだが、ともあれ、名前は雅なのである。

 雅といえば源氏物語の巻名がそうで、では、源氏物語に相撲部屋を紛れ込ませるとどうなるであろうか。

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桐壺・井筒・空蝉・夕顔・若紫・末摘花・紅葉賀・九重・葵・宮城野・花散里・須磨・明石・田子ノ浦・蓬生・二所ノ関・絵合・春日野・薄雲・朝顔・峰﨑・玉鬘・尾車・胡蝶・蛍・山響・篝火・野分・片男波藤袴八角・梅枝・藤裏葉・若菜上・若菜下・柏木・東関・鈴虫・浅香山・御法・幻・貴乃花

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 まあ、最後がちょっとあれだが、なかなかいい感じで溶け込む。なお、決して親方の顔を思い浮かべてはいけない。

知ってるつもり

知ってるつもり――無知の科学

知ってるつもり――無知の科学

 

 たまたま手にした本だったが、良書だった。多くの人がおそらく気づいているだろうことを認知科学の見地から上手に整理してくれる。

 我々は物事の多くを何となく「知ってるつもり」で暮らしていて、大過ないのでそのままにしているのだが、実は大して物事を本当に理解しているわけではない。たとえば、多くの人は洋式便器が流れる仕組みを知らないし、ファスナーが開閉する仕組みも知らない。それでも、ハンドルを下げるなりスウィッチを押すなりすれば水は流れるし、ファスナーの引き手を上げ下げすれば閉じたり開いたりする。

 世の中がうまく回っているのは個人個人が全ての知識を持っているからではなく、コミュニティの中で知識を分担しているからだ、というのが著者たちの主張だ。トイレのやファスナーの仕組みを個人個人がきちんと理解していなくても、便器のメーカーや配管工、あるいはファスナーのメーカーが仕組みを理解して、差配ができれば、世の中はうまく回る。人類がここまで繁栄できたのも、個人の知識が深く多いからではなく、むしろ、ひとりひとりの知識はたいしたことなくてもコミュニティのなかで知識を分担できたから、という。無知無能な私としてはとても納得がいく。

 しかし、この、コミュニティによる知識の分担には困った点もある。たとえば、政治に対する意見がそうだ。人々は大して知識がなくても「多くの人がそう言っている」ということから「知ってるつもり」になって意見をがなってしまう。

 一般的に私たちは、自分がどれほどモノを知らないかをわかっていない。ほんのちっぽけな知識のかけらを持っているだけで、専門家のような気になっている。専門家のような気になると、専門家のような口をきく。しかも話す相手も、あまり知識がない。このため相手と比べれば、私たちのほうが専門家ということになり、ますます自らの専門知識への自信を深める。

 これが知識のコミュニティの危険性だ。あなたが話す相手はあなたに影響され、そして実はあなたも相手から影響を受ける。コミュニティのメンバーはそれぞれあまり知識はないのに特定の立場をとり、互いにわかっているという感覚を助長する。その結果、実際には強固な支持を表明するような専門知識がないにもかかわらず、誰もが自分の立場は正当で、進むべき道は明確だと考える。誰もが他のみんなも自分の意見が正しいことを証明していると考える。こうして蜃気楼のような意見ができあがる。コミュニティのメンバーは互いに心理的に支えあうが、コミュニティ自体を支えるものは何もない。

 政治的な問題はたいがい複雑な要素のからみあいから成るが、人間は面倒くさいのか、価値観で直感的に判断してしまうのか、つい単純化してしまいがちになる。そうして、単純化した似たような意見の持ち主同士が結びつき、別の単純化した意見の持ち主たちを敵視してしまう。おそらくそうした敵視は快くもあるのだろう。SNSによって、こうした分断はより谷を深くしているようにも見える。

 人間は知ってるつもりで実は大して知っていない、ということを認めること。謙虚さは時に死活問題に活きると思う。

ヘアーとすっぴん

 先日も書いたように、最近、頭の後ろと横を上まで刈り上げている。

 前に刈り上げてから二週間が経ち、髪が伸びてきた。

 普段は整髪料で無理矢理に形をつけているのだが、シャワーを浴びて髪を乾かすと、一本一本の毛が立ち上がってなかなか盛大である。一番似ているのはタワシだが、勢いも含めて表現するなら、夏、伸び盛りの川原の雑草か、あるいは手品師がポン、と飛び出させる花束かもしれない。

 鏡を見ながら、「ああ、女性にとってのすっぴんってこういうことなのだなあ」と思った。

 二十代以上になると、日本の女性の多くはすっぴんをあまり見せたがらなくなる。家族など、心を許せるというか、物理的に見せざるを得ない相手以外にはすっぴんを恥ずかしがる人が多い。

 おれは化粧をしたことがなく、また、一般に男は化粧をせずともよい、とされる文化のなかで生きてきたから、化粧とすっぴんをめぐる女性の心理というものを実感したことがなかった。なるほど、こういうことであったか。

 そして、鏡の中の雑草の大群を眺めながら、「『本当の自分』とは、整髪料で髪を整えたおれだろうか、伸びるがままのおれだろうか?」と考えたのであった。

 同じ伝で、化粧(化けて粧う、と書く)に長けた敬愛する女性の皆様方よ、「本当の自分」とやらは、化粧をしたあなただろうか、すっぴんのあなただろうか?

サバ食うべきか、食わざるべきか

 おれは小太りになってしまった。

 二十代前半の頃の体重は五十キロ台前半で、身長は168cmだから(今も変わらない)、その頃は中肉中背か、むしろ痩せたほうだったろう。それが今は七十キロだから、四半世紀の間に二十キロ近く太ったことになる。運動なんぞしないから、太った部分のほとんどは脂肪と考えられ、全身に二十キロもの脂肪を付けていると想像すると、そら恐ろしい。

 健康診断を受けると、案に違わず、中性脂肪の値が高いと言われる。中性脂肪を減らすには、青魚(サバ、アジ、イワシなど)に含まれるEPADHAという物質がいいらしい。青魚は好きだから結構なのだが、問題はサバである。サバの塩焼きは定食屋の定番メニューだし、骨を取りやすいので、面倒くさがりのおれには大変に便利だ。しかし、困ったことにカロリーが高いのだ。中性脂肪を下げるためにカロリーの高いサバを食って太ってしまったら、本末転倒ではないか!?

 サバ食うべきか、食わざるべきか。こんなことに悩むようになったおれは体重とはは比例して、スケールがどんどん小さくなっている。