米朝の「百年目」、志ん朝の「百年目」

 金曜に休みをとって、自転車で東京を走った。上野から浅草へ出て、堀切から荒川の土手を走り、旧中川べりから門前仲町へと抜けた。雲間からぱっと日がさす瞬間が何度もあって、快かった。

 桜(ソメイヨシノ)は場所によって二分咲きくらいだったり、ほぼ満開に近かったりした。桜の下を走ると、やはり浮いた心持ちになる。

 浮いたままに、昨日はiPod桂米朝の「百年目」と古今亭志ん朝の「百年目」を聴いた。

「百年目」は、大店の真面目一筋と思われている大番頭が主人公の噺。実は花街で遊びなれていて、芸者や太鼓持ちをあげて花見にわっと繰り出す。その遊びの現場で主人に出くわしてしまい・・・とまあ、そんな内容だ。

 米朝の「百年目」は主人の風格が素晴らしい。米朝自身、一門においては大店の主人のようなものだし、花街でも風雅に遊んだようだから、最後の番頭に意見するところに貫禄があり、きびしくもあたたかい。

 一方の志ん朝の「百年目」は米朝のほうより笑わせどころが多い。例の唄うような口調が花見気分に合っていて、楽しい。おれは一時、志ん朝ばかり聴いていた時期があって、そのせいで実はちょっとあの唄い調子に飽いてしまった。しかし、花見時分の浮かれた心持ちにはあの口調と、志ん朝自身の華やかな明るさがぴたりと来て、酔える。

 米朝志ん朝の「百年目」は、それぞれの人(にん)が噺に活きていて、いい。

 今日の昼に家の近くのかむろ坂を自転車で下ると、桜並木は満開であった。

米朝十八番

米朝十八番

キング〇〇〇

 映画「レヴェナント」を見た。

 

 

  冒頭でディカプリオ演じる猟師が巨大なヘラジカを撃つシーンがある。それを見て、ふとキングコングのことを思った。よくわからない連想だが、おれの頭の中は乱反射しているから仕方がない。

キングコング」はご存知の通り、巨大なゴリラがニューヨークで暴れまわる映画である。何度となく映画化されている。それだけ魅力的なキャラクターであり、魅力的な設定なのだろう。

「レヴェナント」を見ながら、あのニューヨークで暴れる巨獣がもしヘラジカだったらどうだろうか、と考えた。観客は何かこう、困るのではなかろうか。「いやまあ、暴れるのは勝手ですが・・・」と、大概の人が不得要領を絵にしたような顔をすると思う。

 なぜゴリラだと受け入れることができ、ヘラジカだと困るのだろうか。ヘラジカは人間から遠く、知性があまり感じられないからか(ヘラジカに失礼だが)。それでは、巨大な犬、たとえば巨大なマルチーズがニューヨークで暴れて、エンパイアステートビルをキャインキャインと駆け上ったらどうか。やはり観客は困るだろう。マルチーズが可愛いすぎるというなら、シェパードでも柴犬でもボルゾイでもいい。やはり困ると思う。四つ足の動物は基本、ふさわしくないのだ、コング的な存在として。

 そう考えると、巨大な「ゴリラ」をキングコングに設定したのは絶妙だと思う。感情が人間に近い。強い。二本足で立つ強い動物ということなら熊も考えられるが、感情移入できる度合いでゴリラにはかなわない。

 などとバカなことを考えているうちに「レヴェナント」はあれよあれよと話が進んだ。テーマが復讐という救いのない映画で、実際、ラストまでほとんど救いはなかったがいい映画だった。しかし、おれは頭の片隅で、キングコングチンパンジーだったら、オランウータンだったら、などと考えているのであった。救いがないのはおれの頭かもしれない。

痒みの知覚

 おれはアトピー性皮膚炎で、かれこれ半世紀苦労してきた。生まれるとき、「あー、カイカイカイカイ。尻、カイー」とケツを掻きながらしかるべき場所から出てきたというのは、おれの生まれ育った小学校区でいまだに伝説になっているくらいである。

 そんなわけで今も常にどこかがカイカイカイカイなのであるが、このカイカイカイカイの箇所には特性があると、この頃わかってきた。その時々でカイカイカイカイとなるところは常に二、三ヶ所であって、それ以上は知覚されないのだ。

 たとえば、鼻の中と左の横腹と右のこめかみがカイカイカイカイだとする。すると、後の場所はカイカイカイカイと感じない。そこで、鼻の中と左の横腹と右のこめかみを掻く。アトピーの炎症箇所を掻くのは厳禁だとされているのだが、それはアトピーの苦しみを知らない人間が無責任に言うことである。カイカイカイカイの場所を掻くのはアトピー人にとって無上の喜びである。あああああああ、と、その瞬間、大げさでなく、天にも昇る心持ちである。

 で、天にも昇って一時的にカイカイカイカイがよくなるのは結構なのだが、今度は別の場所、たとえば、ひざ裏や耳の中や左のこめかみがカイカイカイカイ、となる。その箇所がいきなり痒くなるわけではないのだろう。たとえば、ひざ裏や耳の中や左のこめかみが本来痒い状態(要するに炎症を起こしている)であっても、鼻の中と左の横腹と右のこめかみの痒みがそれ以上であれば、おそらく脳は鼻の中と左の横腹と右のこめかみの痒みしか知覚しないのだ。

 痒みを知覚される箇所が限られるのはラッキーとも考えられるが(全身そこらじゅうカイカイカイカイという悲劇を想像してみていただきたい)、しかし、いささか疑念も残る。本来、カイカイカイカイという状態(炎症)は全身あちこちに起きているのだが、単に知覚される場所は大脳の情報処理上、限られるだけなのではないか。つまり、知覚されている場所以外もカイカイカイカイとなっていて、どこかで信号が遮断されているのかもしれず、これはある意味、気づかぬうちにストレスになっているのだとも考えられる。

 意識野の下の無意識野で、おれは常にカイカイカイカイをあちこちで感じているのかもしれない。ただ、意識ののぼらないだけ。実は全身痒いのだ。人生、これストレス。生まれてからずっと実は尻が痒い。

伝説の人

 それぞれの社会や民族に伝説の人というのはあって、我が国であれば、おそらく、ヤマトタケル源義経織田信長西郷隆盛といった人たちであろうと思う。歴史的影響でいえば、おそらく、源頼朝豊臣秀吉徳川家康大久保利通といった人たちのほうが大きいのだろうけれども、時代を象徴するという点では先の人々にかなわない。

 おれは1966年の生まれで、同時代体験した伝説の人(語り継がれるであろう物語を持つ人)というと、ビートルズジョン・レノン、モハメッド・アリ、スティーブ・ジョブスオサマ・ビン・ラディンといったあたりが思い浮かぶ(おれがバブバブしていた時代を含めてだが)。いずれもジャンルを超えて社会に影響を与えた人達であり、最後は悲劇に倒れいている(人間は死すべき存在だから最後は必ず悲劇で終わるのだが、それにしても、である)。悲劇に倒れることは伝説の人となる条件のひとつなのだろう。

 現代で伝説になりうる人は誰なのだろうか。実際的な影響力の大きさといえば、Googleセルゲイ・ブリンFacebookザッカーバーグが候補に挙がるのかもしれないが、伝説というふうでもない。メッシはサッカーの分野では圧倒的能力を持つが、時代の象徴とまでは言えない。

 今の時代、伝説の人は出るのだろうか。1) 圧倒的業績をあげる、2) ジャンルを超えて影響を与える、3) 悲劇に倒れる。この三条件がおそらく伝説の人には必要で、今はたまたま小休止か、あるいは伝説の途中で凡人は気づいていないだけなのか、わからない。

相撲は国技か

 例によってのおれは、おれは、という話で申し訳ないのだが、相撲についておれの思うところを書く。例のやいのやいのの騒ぎはそろそろ収まったんだろうか。人の尻馬に乗ってやいのやいの言うのは嫌なので、今頃書く。

「日本の国技である相撲が〜」という言い方をよく聞く。その後はしばしば外国人力士への批判や日本人力士への期待(あるいは不甲斐なさ)へと話が続く。外国人力士にとっては時にゆるやかな差別にも感じられ、腹が立つ、あるいは悲しい言われ方だろう。

 相撲が日本的なのは間違いないが(八百長やごっつあん的な馴れ合いも含めて。モンゴル人力士の親睦会はそういう意味では日本の伝統に正しくしたがっているとも言える)、国技といえるかというと、疑問である。

 相撲が「国技」と呼ばれるようになったのは、明治の末に両国に「国技館」ができてからであるらしい(今の国技館は1985年の再建)。「国技館」と名乗ったことから、また日本的な特殊イメージがあることから、国技と呼ばれるようになったようだ。

 しかし、実体として相撲が国技とは思えない。神事に相撲が伴うことはあったようだし、村祭りの力比べとして相撲が行われることもあったろう。また、禁裏でも相撲を演じることはあったようだ(年寄の名前が顔に似合わず、高砂、伊勢ケ浜などと妙に雅なのはそのせいかもしれない)。しかし、国技と呼ぶほどに昔から技が浸透していたようでもないし、おれが小学校の頃には体育の授業で申し訳程度に相撲の時間があったが、本当に申し訳であった。もし国技と呼ぶべきものがあるとしたら、経験者の人数からして柔道や剣道のほうがまだ近いと思う。

 ともあれ、「国技」という言い方を外国人力士への悪口や溜飲下げに利用しているのを見ると、みっともないと思う。うがった見方をすれば、「強い外国人力士など見たくない」という意識が「日本の国技である相撲が〜」という言い方につながっているのではないか。

自家用車と籠

 おれは東京の目黒区に住んでいて、移動には主に電車か自転車を使っている。自動車を持っていたのはもはや四半世紀ほど前だ。

 「『移動』の未来」(エドワード・ヒュームズ著、染田屋茂訳、日経BP社)という本を読んだせいもあるのだが、今日、自転車で山手通りを走っていて、ふと思った。

「ひとりふたりの人間を運ぶために1〜2トンもの機械を石油で動かしている。これって異常なことなんじゃないか?」

 自家用車のことである。自家用車を否定するわけではないし、自家用車がなければ現実として暮らせない人も多いだろう(特に大都市圏以外では)。「好きで乗ってるんだ、何が悪い」と言われれば、別に悪くはない。

 ただ、素になって見てみると、随分と大げさなこと(体重40〜100kgくらいの人間を1人か2人運ぶのに、その10倍ものかたまりを使っているのだ)が、日本でも、世界の各所でも行われていると思う。

 落語のマクラなんかでよく「エー、テレビの時代劇なんかによく出てきますが、江戸時代は籠というものを使っておりまして、ひとりの人間を運ぶのにふたりがかり、時には『三枚』と言いまして、三人がかりで行く。考えてみればぜいたくなものですナ」なんぞと言う。

 五十年か百年も経って、今の自家用車が大量に行き交う道路風景を写真か何かで見た人は「考えてみればぜいたくなものですナ」と言うんじゃなかろうか。

「移動」の未来

「移動」の未来

おれについての三つの事実

 のっけから何だが、おれはまわりからウミウシ級の面倒くさがり、ダメ人間と思われているフシがある。面倒くさがりなのは事実だが、ダメ人間は違うと思うので、ここで白黒つけておきたい。

 きちんと整理しよう。まず:

 

● やればできるが、めったにやらない。

 

 ここはきちんと主張しておきたい。やればできるのである。むしろ、人並み以上にできる。ただ、やらないだけである。

 次:

 

● 負けず嫌いなので、なるべく勝負しない。

 

 負けると悔しい。人並み以上に悔しがる。だから、なるべく勝負は避けている。

 最後:

 

● 責任感が強いので、責任がともなうことは最初から避ける。

 

 失敗すると、人様に迷惑がかかるからね。基本的に人生逃げ腰であります。