生き馬の目を抜く

 慣用句にはよく考えると凄まじい表現があって、「生き馬の目を抜く」という言葉もそうだ。人を出し抜いて利益を得るというような意味で、「生き馬の目を抜く世の中」「生き馬の目を抜くような業界」などというふうに使う。

 文字どおりにとらえると、何とも恐ろしい。何しろ、生き馬の目、を抜くのだ。

 

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Waugsberg [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)]

 

 確かに相当な早技には違いなく、まったくもって油断も隙もない。残酷非情な行為でもある。

 しかし・・・抜いた生き馬の目をいったい何に使おうというのだろうか???

正しい日本語?

 聞きなれない言葉遣いや、違和感を覚える言葉遣いに対して、「正しい日本語を使ってほしい」などと言い出す人が結構いる。

 たとえば、近頃、レストランなどで若いバイトの人が料理を運んできて、「こちら、ハンバーグになります」と口にすることが増えた。その皿に乗った物体が今からハンバーグになるのか? まだ現時点ではハンバーグではないのか?? それともお前がハンバーグに変身するのか??? などというのはもちろん言いがかりですね、ハイ。

 それぞれの言葉遣いには内的な論理が存在するはずで、「〜になります」という言い回しが広まっているということは、そういう言い回しをしたくなる相応の理由があるのだろう。もちろん、その言葉遣いに対する好き嫌いは別問題だ。

 おれは「正しい日本語」という考え方を疑惑のマナザシで見ている。極論すれば、正しい日本語なんてものはないんじゃないかと思っている。あるとすれば、「正しい標準語(共通語)」「正しいNHK的言葉遣い」であって、それはもちろん、正しい日本語というのとはちょっと違う。

 言葉というのは人と人の間を行き来する間に揺れ動く。揺れ動きながら変化していく。そうでなければ、わしらはいまだに「ありをりはべりいまそかり」などと言っておらねばならず、おそらく昔も、ありをりはべりいまそかり派の人たちは新しい変格活用が出てきた頃、怒り狂うか、ああはれと嘆くか何かしたはずでおじゃる。

 

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※ 写真は本文とは関係ありません。

 

 ついでに言えば、「正しい標準語(共通語)」「正しいNHK的言葉遣い」というのはとても規範的で、情緒的表現や感情のニュアンスを表すにはあまり向いていない。おそらく方言やいわゆる若者言葉がニュアンスを豊かに表現できるのは「正しい標準語(共通語)」「正しいNHK的言葉遣い」から離れて、自由さを持つからだと思う。

 繰り返しになるが、好き嫌いは別よ。好きな日本語表現、嫌いな日本語表現なら、人によっていろいろあるはずだ。ただ、目新しい嫌いな言葉遣いに対して、「正しい日本語」なるものを振りかざすのは、すり替えじゃあないかと思うのだ。

チッチキチー俳句

 こだま・ひびきという大阪のベテラン漫才師がいる。泥臭いというか、コテコテというか、お好み焼きにベッタリ塗ったソース(マヨネーズ入り)のような濃ゆさが特徴だ。むりくりにでも笑いにもっていく芸風で、東京のもりそば的な芸が好きな人はちょっと苦手かもしれないが、おれは好きだ。

 こだま・ひびきのギャグに「チッキチー」というのがあって、このフレーズをいいながら、こだまが親指を立てて突き出す。その親指には「チ」と書いてある。文章じゃわからないですよね。こういうのです。

 

youtu.be

 チッチキチーの意味はといえば、「意味はないけど、楽しい言葉や」だそうだ。素晴らしい。

 それでふっと思いついたのだが、俳句。あれの終わりをチッチキチーにすると、すべてが楽しくなる。たとえばだ。

古池や 蛙飛び込む チッチキチー

 意味はないけど、楽しい俳句だ。

 同じ芭蕉の最後の句。

旅に病んで 夢は枯れ野を チッチキチー

 無化というのかな、こういう全てをナシにしてしまう手法、おれは大好きだ。

 やはり芭蕉の句。

五月雨を あつめて早し チッチキチー

 五月雨つながり、蕪村で行ってみよう。

五月雨や 大河を前に チッチキチー

 小林一茶

雀の子 そこのけそこのけ チッチキチー

やせ蛙 まけるな一茶 チッチキチー

目出度(めでた)さも ちう位なり チッチキチー

 なんか最後のはかえってさみしくなってしまった。

 簡単につくれるので、みなさんもチッチキチー俳句、やってみてください。

 

カサブタはがし

 おれはカサブタをはがすのが好きで、そのために生きていると言ってもいいくらいである。嘘である。

 カサブタをはがすといっても、昔、好きだったのに別れた人のことを思い出して、「ああ、あのとき、ああしていれば」などと後悔する、いわゆる心のカサブタはがしではない。肉体のほうのカサブタはがしである。

 カサブタが固まってきたり、ガチンと張り付いている頃ははがしても楽しくない。痛いだけである。旬は、傷も癒えてきて、カサブタの端のほうから四分の一くらいがめくれてきた頃。爪にひっかけてメリメリメリッとはがす、わずかに痛いような痛くないような、ソフトな手触り。ちょっと血がにじむくらい。ああ、背徳の悦び。

 カサブタはがしの快感を商品化できないかと考えてみた。皮膚くらいの弾力のシリコンかゴムに、接着剤のやわらかい皮膜のようなものがあって端がめくれている。これを爪にかけてメリメリメリッ。・・・どうもあまり売れなさそうである。考えてみれば、これを家でひとりで楽しんでいるやつというのは相当に暗い。変人といってもよい。

 まあ、カサブタはがしの快感というのは、爪のほうの感覚もだが、めくられるほうの皮膚のほうの感覚も合わさって、爪と皮膚の共同作業として高まるものである。爪のほうの快感だけでは足らないのだ。

 それにしても、カサブタはがしの快感はどうして人類に残ったのだろうか。進化論で考えてみれば、カサブタをはがすとそこから雑菌が入り込み、感染症で死ぬやつが多そうである。そういう、カサブタをはがすDNAは淘汰され、カサブタをはがさないやつがもっぱら残りそうだが。

 それとも、カサブタはがしの快感は比較的最近、人類が細菌を排除した衛生環境に暮らすようになってから生まれたのだろうか(おそらく、せいぜい百年から百五十年ほどである)。あるいは、昔からカサブタはがしの快感はあったのだが、感染症の恐怖(おそらく、悪魔がカサブタはがしの傷口から入り込む、というかたちで考えられてきただろう)から、カサブタはがしを人類はずっと我慢してきたのだろうか。それが、衛生的環境になってきて、おおぴらにカサブタはがしをできるようになったのか。温暖化する世界にあって、カサブタはがしに未来はあるのか。SDGsカサブタの関係は!?

 うーむ。進化論は非常に便利な道具だが、シロウトが振り回すと、ロクなことにならないという例をまたさらしてしまった。

家来から子どもへ

 先週、この頃は「核家族や単独世帯が増えて、家族(主に子ども)の便利な代わりとしてペットを選ぶことが増えたんだろう」と書いた。

 まあ、実際にはペットといってもいろいろであって、蛇やトカゲを飼っている人は子どもの代わりとあまり感じてないかもしれない。蛇やトカゲは人間に似た反応が少ないからだ。実際、爬虫類は人間に媚びないから好きだ、という人もいる。

 一方、ペットの代表である犬や猫は子どものように扱われることが多い。親が子どもを着飾るように犬や猫を着飾る人をよく見るし、何より言葉遣いが「もうちゅぐご飯でしゅからねー」だ。大人が赤ちゃんに対して赤ちゃん言葉を使うのは、赤ちゃんに近い目線におりて心理的に近づきたいからだろう。ならば、犬に対しては「バウバウバウ」と犬言葉を使うのが筋ではないか。

 昔はおそらく人間と飼い犬の関係は主人と家来に近かったろう。桃太郎と犬の関係である(桃太郎の家来の犬には名前すらない)。親子に近いような感じ方もあったろうが、おそらく主ではなかったはずだ。少なくともおれは犬を赤ちゃん扱いする昔の話を読んだことがない。

 今も飼い犬に対して身分、立場の差をつけていることは多いだろうが、一方でここ二、三十年来だろうか、赤ちゃん、子どもの代わりとして「でしゅねー」的に可愛がるのをよく見かけるようになった。古今亭志ん生の言う「糸っくずのかたまりみたいな犬」が増えてからかもしれない。

 別に調査したわけではないが、最初に書いたように、犬や猫の赤ちゃん扱いは単身や単独夫婦に多いように感じる。なぜなら、犬や猫は便利な赤ちゃんだからである。

ペット目線

 SNSWWF世界自然保護基金)の広告がよく出てきて、野生動物の保護を訴えているのだろう、「かわいそうは、守りたいのはじまり。」とのたまう。

www.wwf.or.jp ああ、ヤダヤダ。野生動物に対して、ペット目線ではないか。

 ペットというのは動物の中でもかなり特殊なもので、なぜか子どものように扱う人が多い。「あらあら、いけましぇんねー」とか、「もうちゅぐご飯でしゅからねー」とか、十数歳、人間なら六十歳か七十歳くらいにあたる犬に幼児言葉で語りかけたりする。

 おそらく、昔はもっと人間と飼う動物の間に身分の差というか、立場の違いというものがあったのだろう。しかし、核家族や単独世帯が増えて、家族(主に子ども)の便利な代わりとしてペットを選ぶことが増えたんだろうと思う。その結果としての「もうちゅぐご飯でしゅからねー」である。

 まあ、ペットにどう接しようと勝手ではあるけれども、その目線(子ども目線)を野生動物にまで広げるのはどうなのかと思うのだ。野生動物には野生動物の尊厳というか、人間の勝手な願望やファンタジーとは別のありようがあるのであって、それをちっぽけなペット目線で扱うのは失礼ではないか。

 そもそも、「かわいそうは、守りたいのはじまり。」なら、たとえば、野生状態においてライオンに食われるヌーとか、ワニに食われるシマウマはどう考えればいいのだろうか。ヌーやシマウマがかわいそうで守りたいといっても、守られてしまってはライオンやワニは飢えなければならない。ライオンやワニがかわいそうで守られてしまってはヌーやシマウマは食われなければならない。あるいは、たとえば仮にフジツボが絶滅しそうになったら、かわいそう、守りたいとなるだろうか。ゴキブリ、ムカデ、アナコンダだとどうか。動物保護におけるかわいそう路線は何かこう、あっというまに行き止まりにつきあたってしまうと思う。

 野生動物保護に反対しているわけではない。ペット目線は野生動物に対して失礼だし、ペット目線に基づく保護は視野がごく狭いうえ、動物格差社会に至るように思うのよね。

物の名前

 昨日、あいちトリエンナーレで見たビデオ作品に、翻訳について、同じ食材を使って同じような料理法でつくっても炒飯と呼ばれたりナシゴレンと呼ばれたり、というような一節があって、妙に印象に残った。

 よくよく考えれば、何かに名前をつけるという行為には、なかなかに深いものがある。一番の役割は、他と区別するため、ということであろう。「アレがアレをアレしたら、アレがアレした」では話が通じにくく、そこで炒飯と呼んだり、ナシゴレンと呼んだりするわけである。そんなこんなで、炒飯がナシゴレンをピラフしたら、米がライスした、となるわけだ。ならないか。

 名前には一般名詞と固有名詞というのがあって、たとえば、おれが人間で日本人で馬鹿というのは一般名詞で、稲本で喜則というのは固有名詞である。

 人格や人格に近いものを認めたい対象(たとえばペット)、あるいは企業やブランド化した商品には固有名詞をつける。一方で、作品に対しては微妙で、美術作品には固有名詞がつくことが多いが、音楽では曲には名前がついても個別の演奏には名前がつかない。考えてみれば不思議である。演奏それぞれは別の特徴や個性を持つはずなのに、だ。

 料理も普通は一般名詞がついて、固有名詞がつくことはない。

 毎日、炒飯(でもナシゴレンでもよいが)をつくる人間が、それぞれの炒飯に名前をつけることにしたらどうなるだろう。「今日のヒロコは昨日のゴローより胡椒が効いておるわい。卵の具合はゴローのほうが少し上かな。それにしても、一昨日のミッチェルは良い炒飯だったなー」などと遠い目で回想したりして、まあ、どのみち、食ってしまうわけですが。