末端の人々

 朝早くに家を出て駅に行くと、駅前で日本共産党がビラを配っていた。70代とおぼしき爺さんと婆さんである。

 この人たちは今でも共産党のために活動しているのだなー、どういう人生を歩んできたのだろうか、などとぼんやり思った。

 70代だとすると、いわゆるベビーブーマーで、1970年前後あたりにはおそらく学生運動に参加していたのだろう。共産主義がまだ多くの人にとって理想的と思われていた時代だ。

 その後、1990年あたりにソ連と東欧の共産主義政権が次々と倒れ、また、共産主義系統の社会主義の欠点があらわとなった。官僚主義が幅をきかせ、人々は「計画」なるものに基づいて命じられたように働かざるを得なくなり、自由がないので創意工夫は発揮できず、労働意欲は低くなり、物の乏しさばかりが目立つようになっていく。中央の言うことへの不満や反対を表に出した者は矯正という名の下で強制労働に従事させられたり、下手すると処刑されたりする。

 そうした歴史の光景を見てきて、駅前でビラを配るあの爺さん、婆さんは今、共産主義をどう考えているのだろうか。まだ信じているのか、もはやあんまり信じずに、ただ何らかの社会正義の実現を目指して党のために働いているのだろうか。

 昔は共産党の末端の組織を「細胞」と呼んだ。元々は組織的に他と切り離されても自立的に運動できることから細胞と呼んだらしいが(アメーバ的なイメージ)、全体組織が確立されていくと人体の末端の細胞のように中央(脳神経系のイメージ)の命じることをこなす存在になっていく。細胞は全体の中に組み込まれ、自立性は持てなくなり、言われたことを忠実に行う者が評価される。少なくともおれにとっては嫌なイメージである。

 あの爺さん、婆さんは細胞として活動しているのであろうか。

 若い頃理想を信じて、そのまま運動を続けているうちに命じられたことをこなす小さな細胞になってしまったとしたら、何やらさびしい感じがする。

動物感動物語への違和感

 YouTubeでこんな動画がレコメンドされて、見てみた。

 

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 おれはこの手の(野生)動物感動物語にどうも抵抗がある。人間と野生動物の心の交流みたいなことはまあ、タッチングだが、野生動物をペットみたいな目線で見るところに違和感を覚えてしまう。

 この動画で黒ヒョウを育てた女性は野生動物の野性を理解している。一方で、動画の制作者は「どうです? 友情ですよ。感動でしょ?」という見方が先に立っていて、ありていに言うと、ペット目線で野生動物を見ている。

 野生動物にはそれぞれの物事の捉え方があり、それは種が違う以上、人間には完全には理解できないものだろう。また、野生動物の野性・それぞれのあり方に敬意を払うべきで、野生動物をペット目線で見ることは相手に対して大変に失礼だと思う。 

 この動画のチャンネル名は「どうぶつ愛護センター 〜こころの隠れ家〜」だそうだ。わくわく動物ランド的な甘ったるいファンタジーとして野生動物と人間の関係を捉えているのだということがわかる。

 一方で、野生動物と友達になろうとして大失敗した例も世界にはあるはずだが、そういう例をおそらく「愛護」「こころの隠れ家」などという甘ったるい言葉遣いを好む人たちは見たがらないのだろうと思う。ヒョウは人間を威嚇するのがヒョウらしいあり方であり、熊は人間を襲うのが熊らしいあり方で、それは尊重すべきことだ。わくわく動物ランド的に野生動物を捉えることと、たとえば猟師が熊に敬意を払いつつ戦うことには大きな違いがある。

 動物愛護の人々は自分の狭い了見の愛を押しつけているのであって(ある種の一方的で身勝手な恋愛に似ている)、本当の意味で相手のことを理解していないし、する気もないのだと思う。

志ん生を聞いてほしい

 おれは古今亭志ん生が好きで、よく昔の録音を聞く。

 志ん生は昭和二十年代から三十年代に活躍した落語家で、息子は金原亭馬生古今亭志ん朝である。驚くほどのネタ数を誇るが、人情噺より滑稽噺が得意で、まあ、この滑稽噺の破壊力ったらない。同時代の桂文楽三遊亭圓生を今聞くとさすがに古いなと思うが、志ん生の噺は今でも通用する。そういう意味では現代的というか、むしろ普遍的なのかもしれない。

 独特の口調で、文字にするとさして面白くないギャグも、志ん生が言うと無性におかしくなる。たとえば、「タコが山に寝ていて、タコ寝山(箱根山)」とか、「蛇が血を出して、へーびーちーでー」なんて、文字づらだとつまらないが、志ん生が語ると笑ってしまう。

 志ん生の凄さはいろいろあるが、ひとつ取り上げると見立ての上手さ、おかしさがある。たとえば、夫婦の口喧嘩で女房のほうが大声を出すと、「おまえね、そういう船を見送るような声を出すんじゃないよ」。船を見送るときは確かに大声になる。無性におかしい。

 同じ夫婦の口喧嘩で女房のほうが「この上げ潮のゴミ!」。そのココロは夫が出かけると廓やなんかで「引っ掛かる」から。志ん生があの口調で言うと、たまらなくおかしい。

 全身これ落語家という人で、脳溢血で半身不随になった後、あるとき口座で後ろにひっくりかえった。「お〜い、前座ぁ〜」と楽屋の前座を呼び、起こしてもらった。「えー、というわけで」と何もなかったように話し始めたときは、めちゃくちゃ受けたそうだ。そうだろうなあ。何を言ったら受けるか、瞬間に判断したんだろう。

 ともあれ、笑いの好きな人は志ん生を聞いてみてほしい。いくつかおすすめのCDを紹介する。

 

 

 

 

 おれの愛情の押し付けになってしまった。でも、聞いて後悔はしないと思う。なんせ、おかしい。

イギリス下院がうらやましい

 YouTubeで時折、イギリスの下院議会の討論を見る。

 前の下院議長バーコウ氏はユーモアたっぷりで、その議会の仕切りぶりが実に面白かった。ブレグジット騒ぎのときにイギリス以外でも注目を浴び、ファンも多いようである。

 その後、ホイル氏が下院議長の座についた。どんなもんだべさーと思っていたら、こんなムービーがあった。

 

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 重要事項を議会に報告する前にメディアに公開した国務大臣に、下院議長がガツンと食らわせる。

 イギリスの下院のよいところはこの率直なやりとりである。議長が議論を積極的に進める。与党と野党が実質的な討論を行う。官僚が用意した答弁を読み上げることの多い日本の国会とは随分違う。

 ひとつには、野党と与党が向き合う席の配置もあるかもしれない。日本の国会では、決められた席に議員が座るが、イギリスの下院では自由に座っているようである。この動画での議場のがらがらぶりも面白い。議員が出たいときは出る、出る必要がないと考えたときは出ないということなのだろう。議員が義務的に着座して居眠りしている我が国会とはえらい違いである。

 もちろん、イギリス下院の活気は空間レイアウトのせいだけではないだろう。議会における議論のあり方を長い時間かけて成熟させてきた伝統、先人の力が大きいのだと思う。

 ひるがえって、我が国会の動画を見ると(衆議院本会議ではなく、衆議院予算委員会):

 

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 この活気のなさ。官僚的、儀式的な答弁。特に追求される側の与党にやる気というものがまるで感じられない。

 イギリスの下院が本当にうらやましい。日本はまず国会を改革すべきではないか。

 

世界が、世界が、と盛りすぎじゃないか。

 YouTubeを見ていたら、中田英寿セリエAデビュー戦の動画がレコメンドされたので、見てみた。

 

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 確かに、この試合での中田の活躍は素晴らしい。

 しかしまあ、「世界に衝撃を与えた」はさすがに盛りすぎだろう。ユベントスは人気チームだから世界のあちこちである程度見ていた人はいるだろうけど、世界レベルで衝撃を与えたわけではないと思う。イタリアではその日のスポーツニュースか何かで注目されたかもしれない。しかし、もちろん、イタリア=世界ではないし、中田がイタリア人に衝撃を与えたかどうかもわからない。

 むしろ、日本人選手がイタリアでもやれるということを見せて、「日本に衝撃を与えた」というのが正確なところだろう。世界に、ではない、日本に、なのだ。

 どうも欧米で日本人が活躍すると、過度にコーフンする人が多いようだ。そのあげくに、「世界に衝撃を与えた」などと大袈裟にすぎる表現をしてしまう。盛ることで、快感が増すのだろう。これだけコーフンするということは、もしかすると劣等感なりコンプレックスなりの裏返しなのかもしれない。

 中田はセリエAでなかなかの成績をあげた。しかし、レギュラーをつかんだと言えるのは、怪我の影響もあったろうが、ペルージャでのデビューの年と、パルマでの二年目だけである。実績で言えば、最近の日本人選手のほうがずっと上である。

 憎まれ口になってしまった。日本人サッカー選手が欧州に進出する先鞭をつけたという意味で、中田の功績をたたえたいと思う。

ピーポくんは全裸だが問題ないのか

 

 警視庁のシンボルマスコットであるピーポくんである。

 警視庁の広報ツールなどによく登場する。

 前々から疑問なのだが、ピーポくん、全裸だ。全裸にベルトと襷だけ。はっきり言って、変態である。おれがこんな格好で街を歩けば、確実に逮捕される。「ピーポくんの真似をしているだけなんです!」と言い訳しても、絶対に許してもらえないであろう。

 ピーポくんの全裸姿、警視庁としては問題ないのであろうか。

 性器がないからいいのだ、という説明もあるのかもしれないが、爬虫類には普段、性器を体内に収納していて、いざというときに伸ばす種もいる。ピーポくんがそうでないのだ、とは言い切れないだろう。もしそうなら、ピーポくんが街をパトロールしていて、きれいなお姉さんに興奮したら、目も当てられないことになる。

 ピーポくんには家族がいるらしく、こんなイラストもあった。

 

 

 お父さんとおぼしいの、おじいさんとおぼしいの、ともに下半身丸出しである。男性は下半身隠すべからず! という一家の方針なのであろうか。もっとも、右端の幼児は半ズボンを履いているから、一定の年齢に達したとき、ピーポくん一家の男子は下半身をさらけ出す一族のルールがあるのかもしれない。

 しかしまあ、ピーポくんをマスコットとして採用するとき、警視庁内で問題にならなかったのであろうか。

担当「あたらしく警視庁のマスコットとしてこのキャラクターを採用したいと考えております」

偉い人「ふむ。しかし、全裸にベルトだけ、というのは問題ないかね?」

 などという会話はなかったのか。

 もっとも、ピーポくんが制服を着ていたら今いちパンチのないキャラクターになったようにも思われる。ピーボくんが目を引き、印象に残るのは全裸にしたという英断(?)の結果でもあるようにも思うのだ。

クロップさん

 サッカー・プレミアリーグリヴァプールユルゲン・クロップ監督が今シーズン限りでの退任を発表した。

 おれが知ったのは先週の日曜夜だった。スマホをぱらぱら見ていて、突然、「退任発表」というニュースが目に入った。ショックだった。

 クロップ監督の偉大さはいろいろある。

 戦術面では、まず前線からの激しい守備がある。ドイツ時代には「ゲーゲンプレス」と呼ばれていて、クロップ本人が「ヘビーメタルだ!」と言っていたほど、クレイジーな追い回し方だった。もちろん、選手の消耗は激しい。しかし、前線でボールを奪えば、即カウンターにつながるし、ボールが奪えなくても相手チームは思ったところにボールを運べなくなる。

 リヴァプールの監督に就任して、チームが成熟するにつれ、パスをつないでボールを保持することにも取り組むようになった。グアルディオラ監督が洗練させたポゼッション戦術を取り入れたものだと言えるだろう。今のリヴァプールはポゼッションとカウンターを試合の局面に合わせて使い分けている。

 両サイドバックの攻め上がりも特徴だ。右サイドバックのアレクサンダー・アーノルドと左サイドバックのロバートソンがゴールライン間際まで攻め上がり、クロスをあげて、得点に結びつける。守備はその分、危険にさらされるので、これまたクレイジーだが、リヴァプールはリスクをとって得点を狙う。このやり方がうまく行くのは、後方のファンダイクやGKのアリソンの巧妙な守備があるからこそでもある。

 選手の頻繁なポジションチェンジも特徴で、たとえば、前線がサラー、ヌニェス、ルイス・ディアスだとしたら、この3人が入れ替わる。右のサラーや左のルイス・ディアスがいつのまにか真ん中でプレーしていたり、左右の目入れ替わっていたり、真ん中のヌニェスが右、左に位置したりする。相手はマーキングが混乱し、その隙をついて、ゴールに襲いかかる。

 クロップはモチベーターとしても優秀だ。選手に火をつけるのが上手い。試合中は全身で喜びを表現し、不服な判定には怒りをあらわにして抗議する。スタジアムのサポーターを煽り、ホームのアンフィールドは爆発的なムードに包まれる。

 そして、なんといっても人柄が素晴らしい。人格者である。

 退任発表後にサポーターに向けたメッセージ。

 

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「(サポーターに)もう一つのお願いですが、私への応援チャントをあまり早く歌わないでほしいです。いつも大きな声でスタジアムを埋め尽くしてくれますが、『これを私に対するものにしないでほしい』ということです」

 泣けてくる。クロップがリヴァプールのサポーターと結んだ紐帯は強い。これほどイギリスで愛されたドイツ人はいないのではないか。