だけ派の人々

 誰が書いていたのか忘れたが、おれの好きな話にこんなのがある。

 その人が「複雑系とは何なのだ。単純に言ってくれ」と知人に訊ねたら、「まあ、単純に言うと物事は複雑だ、ということだ」と答えたという。

 世の中のいろんな事柄というのはたいがい複雑なものだが、「だけ派」とでも言うべき人々がいて、物事を単純に割り切って、それでヨシとしてしまう。たとえば、「男なんてやりたいだけ」とか、「役人は利権がほしいだけ」などと言う。あるいは、「人間、所詮は金」とか、「結局、みんな自分が大事なだけ」などと所詮派、結局派と呼びたくなる人々もいる。

 昔、国際線に乗ったとき、隣の席に座ったフランス人が、どうしてそんな話になったのか、世界情勢について「目を開け。単純に見てみろ。全てはアメリカの陰謀だ」と言い張るので、辟易したことがある。

 名の売れた学者の中にもだけ派の人はいて、たとえば、ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」なんかはだけ派の本じゃないかと思う。あれは、「結局、世界の歴史は銃・病原菌で動いてきた。勝者は銃・病原菌・鉄を味方につけた側だ」と言っている“だけ”の本ではなかろうか。

 嫌味な言い方で申し訳ないが、だけ派の人々は頭が単純なのか、あるいは考えるのが面倒くさいのではないか。自分にとって理解しにくいものを否定したり、ないことにして、理解しやすいものだけで結論してしまうのは愚かだと思う。その人の勝手ではあるけれども、はたから馬鹿に見えたり、時に品性が低く見えたりもする。

 おれもややこしいことが得意ではないが、「〜なだけ」と単純に割り切らないようにしている。割り切ってしまうと、そこで話が終わってしまうからだ。単純に割り切って結論を出してしまうのは、楽かもしれないが、つまらないし、もったいない。

 わからないことは「ここから先、おれにはわかっていない」と保留するようにおれはしている。そうすれば、何かの機会にその話題の新しいポイントや見方が出てきたとき、「ははあ。そういうこともあるのか」と理解や興味を増やせる(こともある)。馬鹿もほんのちょっとだけ賢くなれると思うのだが、どうか。

クロサワランド

 ふと出来心でディズニー映画の「パイレーツ・オブ・カリビアン」の二作目を見た。半分くらいまで頑張ったがついにノレず、見るのをやめてしまった。

 おれはディズニー映画と相性が悪く、あまり面白いと思ったことがない。冒頭の、ディズニーランドのお城みたいなモーションロゴを見た途端、「嘘とまやかしの国め!」とひとりごちてしまう。

 うんざりしながら見ている間に「クロサワランドを作れないか?」と考えた。映画史にその名を轟かす黒澤明監督作品のテーマパークである。

 映画関連のテーマパークといえば、京都の太秦映画村とか、あと世田谷の砧にも東宝のものがあったと思う。ああいう撮影セットっぽいものではなくて、ディズニーランド並みにどかんとお金をかけて、黒澤明作品で遊べるようにするのだ。

 入園口はもちろん羅生門である。

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 受付の京マチ子(女装束)と三船敏郎(盗人)の案内内容が食い違っていて、入園者はいきなり頭に?を百個くらい並べることになる。

 ディズニーランドの象徴、シンデレラ城にあたるのは蜘蛛の巣城である。中に入るとびゅんびゅん矢が飛んできて、命がけだ。

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 蜘蛛の巣城の横にはなぜか公園があって、志村喬が雪の中、ブランコを揺らしている。ディズニーランドと同じような山もあって、斜面でいかりや長介の鬼(「夢」)が悶え苦しんでいる。

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 ディズニーランドのエレクトリカルパレードにあたるのは同じく「夢」の狐の嫁入りだ。

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七人の侍」からはどのシーンがいいだろうか。ラストの野武士との決戦もいいが、おれとしては中盤の野武士の砦を推したい。平八(千秋実)に扮して、錯乱した百姓の利吉を救うために飛び出し(泣ける)、火縄銃で撃たれるのだ。

 ちなみに、矢で射られても、銃で撃たれても大丈夫。診療所で赤ひげが仏頂面で治療してくれるからである。

 さらに先に進むと、「天国と地獄」の横浜黄金町の麻薬窟に至る。麻薬中毒患者の菅井きんに「何さ、ジロジロ。おれたちゃ見せもんじゃねぇや!」と悪態をつかれる。

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 隣では「ブリキは燃えねえってんダヨ!」と焼却炉番のオッサン(藤原釜足)が怒鳴っている。米兵の集まる怪しげなバーでブギウギも踊れる。

 「用心棒」の町ではジャイアント馬場にそっくりの巨人(羅生門綱五郎)が暴れている。加東大介の着ぐるみに「お前ぇ、強いんだってな」と言うと、大喜びで踊りだす。

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クロサワランドのミッキーマウス

 前代未聞、空前絶後のテーマパークになること、間違いない。問題は黒澤監督であるからして、完璧主義に徹しなければならず、予算は倍増、工期ものびのびでいつ完成するやら、誰にもわからないことだ。

デブの未来

 ここまで三週にわたってデブについて書いてきた。一回目はデブの基礎知識、二回目はデブの美的側面からの考察、三回目はデブと神経科学がテーマであった。最終回となる今回は生物史、人類史をふりかえりつつ、デブの未来像について書きたいと思う。なお、約一ヶ月にわたってデブについて考えてきたことに、今、おれは暗澹たる思いです。

 第一回の「デブと代謝」で書いたように、デブ化の基本公式は:

摂取エネルギー − 消費エネルギー = デブ化エネルギー

 である。消費エネルギーの部分を分解すると:

摂取エネルギー − (運動使用エネルギー + 代謝エネルギー) = デブ化エネルギー

 と言える。

 さて、そもそも動物においてなぜデブ化エネルギーなるものが発生したかというと、将来飢えたときに備えての貯蓄あるいは保険であったろう。動物の脅威には、喰われること、子孫を残せないこと、飢えることの三つがある(病むことの脅威は左記の三つに分散される)。デブ化エネルギーとは飢えることに備えて脂肪のかたちで蓄えたエネルギーのことであって、人間においては腹部がその最も中心的な蓄積装置である。

 ここでいったん現代の技術開発方面に目を移す。現代におけるテクノロジー進化のクロスロード(消失点、あるいはネック)はエネルギーの蓄積方法である。自動車においては、これまでもっぱらガソリンを蓄積エネルギーとして使用してきたが、ガソリンの元となる原油は埋蔵量に限界があるうえ、輸送・流通の問題が常につきまとう。そこでここ十年ほどの間に急速に技術進化しつつあるのが電気自動車だ。ただし、ご案内の通り、その性能は重量の点でも効率性の点でも電池(エネルギー蓄積の一方法)によるところが大きい。一方で情報技術のほうに目を移せば、スマホに代表される情報機器の小型化と移動性はやはり電池性能の向上による。

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テスラ・モデル 3(2016)

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iPhone XS(2018)

 さて、先ほどの公式を左右逆に記すと:

デブ化エネルギー = 摂取エネルギー − (運動使用エネルギー + 代謝エネルギー)

 である。

 デブ化エネルギーとは前述の通り、動物における蓄積エネルギーであるから:

蓄積エネルギー = 摂取エネルギー − (運動使用エネルギー + 代謝エネルギー)

 と書き換えることもできる。

 人間の個体をひとつのシステムとして考えてみよう。すると、人間とは蓄積エネルギーを作り出すための一種の装置と捉えることができる。特に、上記の数式において、摂取エネルギーが豊富であるのに代謝エネルギーが落ちる中年〜壮年期は、蓄積エネルギーを効率的に作り出せる、きわめて優れた時期である。その蓄積エネルギーはお腹まわりを中心として脂肪のかたちで蓄えられる。

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 おれは人間と科学技術の未来についてひとつのビジョンを持っている。脳に電極をつないで情報システムと接続する、などという考えを持つ者がいる。おれに言わせれば、構想が小さい。おそらく、人間の肉体の有効な活用を考えれば、進むべき方向は人体のパーツ化である(義手義肢の技術がその方向に踏み出しつつある)。人体の各部分がパーツとして取り外し、取り付け可能になれば、あの世界のデブ共通の叫び、「腹の脂肪をむしり取りたい!」という夢が実現できるのだ。しかも、蓄積エネルギーとして活用可能なかたちでだ(具体的にどういうふうに活用するかはいささかグロテスクになるので書かない)。

 動物の進化、人体の進化、そして科学技術の進化はここにひとつの結節点を見る。「腹の脂肪をちぎって燃やす」。もしかすると、すべての進化は密かにここに向かってきたのではないか、とおれは思う。

 しかし、人の夢と書いて、儚い(はかない)と読む。おれが生きているうちはこの腹の脂肪はちぎれないだろう。子どもたちよ、意志を継いでくれ。このデブはもう飽きちゃったよ。

デブを神経科学から考える

 デブ化について続けて書く。なお、このシリーズは四部構成で考えていて、その第三回にあたる。

 おれのデブ化が進んで、はた目にもそれとわかるほど腹がせり出してくると(まるで道ならぬ恋をした姫である)、人がいろいろとアドバイスをくれる。その中に「食べるときはよく噛みなさい」というものがあった。

 その人いわく、食べ物をよく噛むと脳神経方面の満腹中枢というところが刺激され、ある程度食べれば満足するようになるのだそうだ。逆にいうと、あまり噛まずに食べると満腹中枢がなかなか刺激されず、まだ足りない、まだ足りない、と余計に食べてしまう。すなわち、デブ化の道に入り込んでしまう、とそういうことらしい。

 おれは早食いで、食事はたいがい5分か10分くらいで済ましてしまう。お餅は飲み物と思っている。人と食事すると、こっちだけさっさと食べ終わってしまって、手持ち無沙汰になることが往々にしてある。前からよくない癖だなーと思っていたが、なんとなくやり過ごしてきた。

 アドバイスにしたがって、「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。一、二、三、四・・・八、九、十。一、二、三、四・・・八、九、十」と三十回噛んでみることにした。五歳児のしつけみたいなことを五十歳過ぎてやるとは、と、いささか情けない心持ちになりながら、ふと閃いた。満腹中枢。鍵はここにあるのではないか。

 デブ化するのはつい食べ過ぎてしまうせいだ。では、満腹中枢をうまく刺激して、すぐに満腹感を覚えれば、食べ過ぎることもないはずだ。どこにあるのか知らないが、そこに鍼を刺すなり灸をすえるなりすればいいではないか。・・・とまあ、考えたわけだが、そんな便利なツボがもし存在するなら、一面飢餓の歴史でもある中国四千年が放っておくはずがない。「腹が減ったときはココに鍼刺すといいアルヨ」というティップスが華僑を通じて世界に広まって、デブと米よこせ的デモはこの世から半減しているはずである。

 インターネットで調べてみると、満腹中枢なるものは脳の視床下部にあるらしい。

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視床下部。Generated by Life Science Databases(LSDB).

 鍼も灸も指圧も無理である。

 こうなったら、おクスリに頼るしかない。脳の視床下部内の満腹中枢に選択的に働く薬さえできれば、人はいつでも満腹。ダイエットはもういらない。ダイエット業界の需要丸ごと飲み込んで、めちゃくちゃ儲かりますよ。ファイザーさん、武田薬品工業さん、開発してみませんか?

 とまあ、考えたのだが、これでは:

おれは肥満である → 食べ過ぎるからだ → おれは悪くない。おれのデカい胃が悪いのだ

 と、胃を小さくする手術を受けたマラドーナと発想が大して変わらない。

 無念である。

 

デブの美的価値を考える

 おれがデブ化しつつあるということからの考察。前回からの続き。今回はデブを美的側面から捉えてみたいと思う。

 現代ではデブがネガティブに捉えられることが多い。「デブのくせに」という陰口には有無を言わさぬ、言い換えれば論理と倫理を超えたパワーがあり、そのパワーの根源がどこにあるのか、興味深い。

 歴史を翻ってみれば、デブがいつの世も否定されていたわけではない。本邦のたとえば源氏物語絵巻を見てみれば、絶世の美男とされる光源氏は顔が下ぶくれのデブであり、情をもつれあわせる女性たちの顔の輪郭もおたふく顔に近い。彼女たちの肉体は十二単に隠れてわからぬが、顔から想像するにおそらく小デブであろう。

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土佐光起『源氏物語画帖』若紫。小デブの光源氏が後の紫の上を覗いている。

 

 中国ではかつて、男がデブであること(限度はあるだろうが)は富を象徴したと聞いたことがある。また、絶世の美女、楊貴妃は、白居易の「長恨歌」で「春寒賜浴華清池、温泉水滑洗凝脂」と歌われたようにおそらく脂分の多いデブであったろうと想像される。

 言葉方面では「恰幅(かっぷく)の良い」という言い回しが残っており、これはデブをプラスに捉えた表現だ。恰幅の良い紳士。いいじゃないですか。

 しかるになぜ現代社会でデブが排撃されるようになったかというと、医療方面およびダイエット業界方面の事情や戦略もあるのだろうが、一番はデブが、「欲望にだらしない」ことの象徴だからであろう。

 風の噂に聞いたのだが、この世には資本主義の精神なるものがあるらしい。儲けをワッと使ってしまわずに、欲望を節制して次の儲けの原資に使う、而して富の拡大再生産を目指すというココロだそうだ。

 この資本主義の精神の人から見ると、「欲望にだらしない」ことは原資を減らすことにつながりかねず、すなわち反資本主義的精神の表れなのである。だから、資本主義の真っ只中にある現代社会(特に先進国)においては、欲望を節制し、一定の苦役(フィットネス、ダイエット)に耐えることが、スマート(賢いという意味もあり、スタイルがよいという意味もあり、洗練されているという意味もある)で格好良いと思われるのだろう。

 だから、デブは反資本主義的であり、現代の支配的な精神に反しており、すなわちみっともないとされるのだ。

 デブよ、勇気を持て。おれ達は無意識のうちに資本主義のうさんくささに抵抗しているのだ。おれ達のカラシニコフ銃はカウチとポテトチップス。ちなみにおれはKOIKEYA PRIDE POTATO 本格うす塩味が好きです。

デブと代謝

 おれはこの春くらいからどんどんデブになっていて、半径10メートル以内ではなかなかの話題である。

 なぜデブになるかというと、割と単純な理屈で:

 摂取エネルギー − 消費エネルギー = デブ化エネルギー

 ということである。摂取エネルギーが多くて消費エネルギーが少ないと、デブになるのだ。

 摂取エネルギーについて言うと、以前からそう変わらないんじゃないかと思う。酒を飲むとやたらと物を食ってしまう悪い癖があるが、昔からそうで、今に始まったことではない。

 消費エネルギーについて言うと、運動量はそう変わらないだろう。問題は代謝のほうだ。代謝とは、簡単に言うと、細胞のひとつひとつがエネルギーをどのくらい消費するかで、おれも五十を過ぎて、最近、おそらく滅法落ちている。年をとれば代謝の作用が落ちるのは自然の法則であって、四門出遊の際にお釈迦様が悟った人生の摂理である。ウソである。

 代謝が落ちるというと「ダメになっている」という見方になりがちだが、おれはちょっとばかり疑問を持っている。

 代謝が落ちるというのはむしろ無駄を省いているということではないか? 現におれは生きているのであり、若い者のように無駄に食ってエネルギーを放出しているわけではない。むしろエネルギー効率がよくなっていると言えまいか?? EUのエネルギー政策に近いことをおれは個人で実行しているのではないか??? とまあ、そのように思うわけである。

 であるからして、おれがデブになりつつあるのはエネルギーを個人的に蓄積する技術を身につけ、実践しつつあるのである。・・・と主張したいのだが、「だったら、摂取エネルギーを減らせ」、というご意見にはムムムというほかなく、おそらくデブには正義がない。残念である。

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おそらく摂取エネルギーの少ない人。

アンドロイドは電気太夫の義太夫を聴くか

「人間とは何か?」というのは古来関心を集めてきた問題であるらしい。「あるらしい」と書いたのは、おれが馬鹿なうえにあんまり知識がないからだ。

 馬鹿なりに面白いなあ、と思うことがある。たいがい、人間論というのはその時代の科学技術の傾向に影響を受けるようだ。たとえば、産業革命で物理的な機械が発達した時代には解剖学的な人間理解が行われた。DNAという一種のコードが解明されていった時代(今もまだそのフェーズだが)にはメタなんちゃらとか、情報論やプログラムとしての人間理解が進められた。このところはA.I.とネットワーク化が関心を集めているから、おそらくパターンを組み合わせるプレイヤーとそのつながり方の相互作用という視野で人間を論じることになるのだろう。たぶん。おそらく。知らんけど。

 人間は自分のことを理解しようとするとき、外に存在する別のモデルをヒントにするのだと思う。そのモデルが急速に発展しているときには、「おおお。そういうふうになっておるのか!」という刺激が強くなるから、それを人間論に活かしたくなるんじゃないか。

 あんまり哲学・思想方面に強くないのでアレなんだが、人間を合理的に理解しようとするだけではちょっと足らんのではないか、と、おれは例のやぶにらみの霊感で思う。人間には歌舞音曲で喜び、悲しみ、楽しむココロというのがあって、これはあんまり他の動物にはない。そこんところを人間理解につなげるとまた面白いと思うんだが、いかんせん、歌舞音曲方面の科学技術というのはエジソンのレコードとシンセサイザーシーケンサー、およびその発展形くらいしかできてないから、外にあるモデル(ヒント)が足りないのだろう。

 A.I.がどういう形でどこまで進むのか、おれなんぞにはわからないが、ちょっと期待は持てる。義太夫を語れるA.I.が登場したら「人間とは何か?」にも新しい見方が出そうだが、しばらくは難しいかな。